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四日市漫歩マップ⑰第二海軍燃料廠日記

2021年11月02日 | レモン色の町

第二海軍燃料廠日記は、平田光男さんが、入廠されてから出征するまでの日記である。下総人さんから、太平洋戦争へ入る昭和16年12月7日から日記が途絶えているのではないか?というご指摘をいただいた。いやいや、平田さんは日記を書き続けていました。四日市の町にあまり関係がないという理由で、私が飛ばして紹介していました。その間の日記をかいつまんでご紹介します。

昭和16年12月8日(月)晴れ

 早朝の出勤途中に重大事件の放送を知る。8日未明、帝国海軍部隊が米海軍根拠地ハワイ真珠湾に、潜水艦による魚雷攻撃と空からの爆撃を加えて、停泊中の米艦隊に大打撃を与えている。事務室内のスピーカーが何度も繰り返して日本海軍の活躍を放送する。8日午前11時45分、大日本帝国天皇は、米国英国に対して宣戦布告の大詔を発せられる。会計部は半数の人員が編成せられて重油タンクの防護作業に向かう。

昭和16年12月9日(火)雨

 今朝通勤の道で、鬼頭さんが「平田くん、僕らもそのうちに、本を読んだり短歌を楽しんだりしておれない時が来るかもしれないよ」と云っていた。当番で2時間残業する、廠内は特別区域灯火管制に入る。

昭和16年12月14日(日)曇り小雪

 今日も浜街道を走る。冬枯れの競馬場のトラックで、騎馬が二騎調教している。この辺りの風景は大好きだ。四日市市内を在郷軍人の列が「米英打倒」の大行進をやっていた。諏訪公園で決起集会があると聞く。

昭和16年12月31日(水)晴れ

 早朝に軽い地震があった。会計部で4名召集令を受けていて、部内はざわめいているのに私は冷静である。今夜は大晦日。どっかへ除夜の鐘を聞きに行こうという話があったが、夕方は寒いからと諏訪神社へ参拝して別れる。

昭和17年1月1日(木)晴れ

 もし戦争が長引けば、家で迎える元旦が、これで最後になる可能性がある。6時の山田行き急行で諏訪で降りる。まず諏訪神社に初詣して、今朝は自分自身の武運長久を祈る。

昭和17年1月4日(日)晴れ

 午後方富田一色の飛鳥神社で、入営入隊奉告式があるので出席する。お守り札をいただいて帰る。

昭和17年1月10日(土)晴れ

 4時起床、朝食、富田駅に向かう。久居中部第38部隊・堀隊入隊。赤飯、鯛の塩焼き、汁物、リンゴ、小田巻が出る。

(以後、4月9日までの3か月間 久居部隊で初年兵として過ごす)

昭和17年4月10日(金)雨

 一時帰郷の報告に燃料廠へ行く。会計部の階段を上り挨拶に回る。

昭和17年4月18日(土)晴れ

 午後1時頃、突如空襲警報が鳴り響く、演習ではないようだ。室内が殺気立つ。ただちに警戒配備に着く。間もなく石原産業の方向から黒っぽい爆撃機らしい一揆が飛来してきた。日本の上空をアメリカ軍機が飛ぶ。想像もしていなかった現実である。名古屋方面に少々の被害があったとのニュースもある。

昭和17年5月4日(月)曇り

 朝出勤してきたら、庁舎の窓ガラス全部に白い紙テープが麻の葉状の模様に貼ってある。これは空襲を受けた時、爆風によるガラスの飛び散りを少なくし、ひび割れを防ぐためだと聞いている。私は隊で手りゅう弾の実験を見ているが、この程度で爆風除けの効果があるのだろうか、疑問に思う。

昭和17年5月8日(金)晴れ

 大詔奉載日の式典がある。渡邉少将の詔書奉読と訓示を聞く。「戦域が拡大すれば、それなりに戦果も大きいが犠牲の大きくなるのも当然。諸君が目や耳にする戦況も。心広くして見つめて欲しい。一地点だけの不利な戦況状況に心奪われていては、この戦争は勝てない」と云われた。

昭和17年5月14日(木)晴れ

 今日、購買所でグリコと石鹸の配給があった。グリコの箱が、あの赤いバンザイ模様でなく、ただ白い箱にグリコと書いてある簡単な箱に変わってしまった。こんなところまで戦争が影響している。

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