前田憲司さん(芸能史研究家)が、伊勢で発行している“NAGI凪”の2120(正:2020年 百年飛びました)年12月号を持ってみえた。この中の“大黒柱に車をつけよ イオンの祖は四日市で誕生した”を執筆してみえる。以前、前田さんからオカダヤの昔の写真を問われたことがあったからだ。
この写真に昭和33年とある。昭和31年9月完成の近畿日本鉄道四日市駅の前に完成した2階建て、一部3階の店舗写真である。この写真の左に“ダイイチニュース??”の看板が見える。この2階にニュース劇場があった。はじめはニュース専門で、やがて洋画も上映するようになったと記憶している。壁でかこまれた百席ほどの狭い劇場だったか?珍しくて2・3度観に出かけた。
前田さんは書いている。四日市は、祭りにしても万古焼にしても一貫性がないと。ここで昭和32年3月17日の週刊朝日のコラムを紹介している。投稿はジャーナリストの浦松佐美太郎氏である。
「四日市は産業の発展力のほうが猛烈な勢いで進んでいくために、それに対応する都市としての施設のほうが追い付けずにいる有様である。だから町の中は混乱し、何が何やらまるでまとまりがないといった状態である。しかしどこへ行っても活気にあふれている。戦前の繁華街はすっかりさびれてしまったが、今では諏訪新道という新しい繁華街ができ、非常な賑わいを見せている。しかしこれもまた新しく出来る商店街に、いつその片影を奪われてしまうかわかるまい。町そのものがどのように発展していくか、その将来を見極めての計画がないのだから、どんな変化が起こるのか誰にも想像がつくまい。(中略)そして国鉄の駅と近鉄の駅との間には七十メートルの道路が作られ、これが近い将来には、四日市の中心になろうとしている。(中略)おそらく将来の繁華街は、この七十メートル道路の近鉄駅よりを中心として作られていくのではないだろうか」。
これが昭和32年の筆耕である。近鉄駅が出来て半年、ようやくくすのきが植えられ中央通りが整備され始めた頃である。浦松氏の先見の明に驚かされる。
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