花の四日市スワマエ商店街

表参道スワマエ商店街会長のひとり愚痴

第二の四日市湊は?

2024年09月28日 | レモン色の町

やっとかめ!でございます タケちゃんの街巡り 今回は 諏訪のまちあちこちに散在しておりました喫茶店を列挙させていただきました。是非クリックしてご覧ください

「昭和30年代の諏訪の町の喫茶店/四日市を掘り起こし/第11回」 (youtube.com)

前々回 この図が何処か?の宿題を頂戴しましたので・・・

江戸初期、阿瀬知川の流れは浜田村から東へ下り、北へ曲がって不動寺前の丸池新田のところに港がありました。港は入り江になっていることが条件で、港に入ってくる船は土橋(思案橋)をくぐって入港していました。ここが第一の四日市湊になります。不動寺には大きな龍灯松があって、この明かりを頼りに多くの船が帰路に着いたのです。

江戸時代初期 不動寺前が湊になっていて 思案橋をくぐったところで 三滝川と合流していた

時代と共に、不動寺前の川幅は狭くなり港は川下に移ります。第二の湊がどこかというと、現在の開栄橋の西詰のところになります。

江戸時代中期 思案橋から海へ出ますが 三滝川とは河口が分かれていきます

元禄時代になると札ノ辻から港へ向かう“浜往還”が整備され、埋め立てが進んだ納屋町の先に埠頭ができます。そこには浜往還一本松と灯台がありました。

江戸時代末期 左下の橋が 後の開栄橋 この場所が第二の四日市湊でした

この松も、地震や高潮の為、安政4年に枯死するに至りました。代わりとして新しい松が植えられましたが、開栄橋架設の際に取り除かれたという記録があります。

昭和9年 第二の四日市湊があった開栄橋北詰め 納屋運河の様子 正面 郵便局の建つところに松の木と燈台があった

阿瀬知川の川下に四日市湊は造られたのです。川下は次々に埋立てられ、新田が開発され、納屋町などの町ができました。しかし、阿瀬知川から運ばれてくる土砂で港は浅瀬となり、浚渫工事が必要とされてきました。この工事に挑戦したのが稲葉三右衛門翁でした。

昭和62年の納屋運河の風景