三日ほど前の中日新聞“人生のページ”より
記事の一部です
阿満 利麿さんがこんなコラムを寄せていた。定年を迎えたサラリーマン。毎日が日曜日と念願だった海外旅行にゴルフにと毎日を送っていた。が、五年ほど経って「やりたいことは全部やってみたが、なにかむなしい、これでいいのだろうか」と妻に訴えたという。
ここで宮沢賢治の「学者アラムハラドの見た着物」という未完の短編を紹介している。
林の中で、学者のアラムハラドは十一人の子供たちを教えていた。火というものは、光と熱の性質を併せ持っている。水は物を冷やすことと低いところへ流れる性質がある。鶯は飛ぶことと啼くという性質がある。
けれども一体どうだろう。子鳥が啼かないでいられず、魚が泳がないでいられないように 人はどういうことがしないでいられないだろう。人が何としてもそうしないでいられないことは一体どういう事だろう」
タルラがまるで小さな獅子のように答えました。
「私は飢饉でみんなが死ぬとき、もし私の足が無くなることで飢饉がやむなら 足を切っても悔しくありません」
アルマハラドが云いました「すべて人は善いこと、正しいことを好む。善と正義の為ならば命を捨てる人も多い。人はまことを求める。真理を求める。人は善を愛し道を求めないでいられない。それが人の性質だ」
阿満氏は賢治の指摘した「ほんとうの道を求める」気持ちは全ての人に備わっているはずだ。「むなしい」という言葉は本当の生き方を手にしたいという気持ちを示すサインだと云う。
それにしても「ほんとうの道」とはどんな生き方をいうのであろうか。もとサラリーマンの言葉から推測できるのは、当面の欲望を満たすことで得られるものではないことだけは確かだ。そのヒントは賢治の作品にある。と結んでいました。