先日、ブログ友の「霧の中の散歩」(以下Kさん)さんが、「ゆとり」の問題について記事にしておられた。
「ゆとり」を感じるためには、「① 窮屈でない ② 余裕がある」ことのほかに、「③ 充実感」を感じる必要があるのではないか、と書いていた。
「③ 充実感」を感じていないご自分に対し、反省をなさっている記事だった。
その記事に触発され、私も、私自身について考えてみたい。
Kさんが定義づけられている「① 窮屈でない」について、まったく異論はない。窮屈では「ゆとり」は感じられない。
「② 余裕がある」について、Kさんは深く述べておられなかった。しかし、この点についても、私には異論がない。
ただし、「余裕がある」とは如何なることかとなると、個人差があるように思う。
「充実感」についても、まったくその通りと思っている。
そのような定義をした上で、自分を考えてみた。
私の場合、「窮屈でない」とは言えない。たとえば、ブログ「いのちの囁き」を毎日更新しようとしている。これはかなり窮屈だ。「今日はよそう!」と思うこともしばしばだ。
しかし一方では、それをし続けていることによって、得難い充実感も感じている。窮屈ではあるが、充実感もあるのだ。「窮屈でない」ことと「充実感」とは、裏腹の関係にもありそうだ。
毎週土曜日の外出も、窮屈と言えば窮屈。しかし、一方では満足感も得ている。
つまり、窮屈ではあるが、そこそこ充実感も感じているので、「まあまあ」の感じだ。
「② 余裕がある」については、金銭的ないしは経済的な面では、余裕があるとは言えない。
だが、これを言い出したらキリがない。そこそこのメシを食べ、好きな本を読み、時には友人や後輩たちと焼酎が飲めれば、それでいいとしなければなるまい。
私にとって最大の問題は、健康上の不安だ。
不健康であれば、生活は窮屈になるし、金銭的・時間的余裕もなくなり、充実感も感じられなくなる。
やや唐突な結論だが、今の私は、そこそこの「ゆとり」ある生活と考えていい。
とは言え、「健康であること」という薄氷の上に立っている感じで、ひどく危なっかしい。
この記事は、Kさんの了解を得ずに書いている。お許しを願いたいと思います。
別館として、写真俳句ブログの「いのちの囁き」を開いております。
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