新・ほろ酔い気分

酔っているような気分のまま、
愚にもつかない身辺雑記や俳句で遊んでおります。
お目に留めて下されば嬉しいです。

「ゆとり」の問題

2009年09月22日 03時50分17秒 | コラム・エッセー

 先日、ブログ友の「霧の中の散歩」(以下Kさん)さんが、「ゆとり」の問題について記事にしておられた。

「ゆとり」を感じるためには、「① 窮屈でない ② 余裕がある」ことのほかに、「③ 充実感」を感じる必要があるのではないか、と書いていた。

「③ 充実感」を感じていないご自分に対し、反省をなさっている記事だった。

 その記事に触発され、私も、私自身について考えてみたい。

 Kさんが定義づけられている「① 窮屈でない」について、まったく異論はない。窮屈では「ゆとり」は感じられない。

「② 余裕がある」について、Kさんは深く述べておられなかった。しかし、この点についても、私には異論がない。

 ただし、「余裕がある」とは如何なることかとなると、個人差があるように思う。

「充実感」についても、まったくその通りと思っている。

 そのような定義をした上で、自分を考えてみた。

 私の場合、「窮屈でない」とは言えない。たとえば、ブログ「いのちの囁き」を毎日更新しようとしている。これはかなり窮屈だ。「今日はよそう!」と思うこともしばしばだ。

 しかし一方では、それをし続けていることによって、得難い充実感も感じている。窮屈ではあるが、充実感もあるのだ。「窮屈でない」ことと「充実感」とは、裏腹の関係にもありそうだ。

 毎週土曜日の外出も、窮屈と言えば窮屈。しかし、一方では満足感も得ている。

 つまり、窮屈ではあるが、そこそこ充実感も感じているので、「まあまあ」の感じだ。

「② 余裕がある」については、金銭的ないしは経済的な面では、余裕があるとは言えない。

 だが、これを言い出したらキリがない。そこそこのメシを食べ、好きな本を読み、時には友人や後輩たちと焼酎が飲めれば、それでいいとしなければなるまい。

 私にとって最大の問題は、健康上の不安だ。

 不健康であれば、生活は窮屈になるし、金銭的・時間的余裕もなくなり、充実感も感じられなくなる。

 やや唐突な結論だが、今の私は、そこそこの「ゆとり」ある生活と考えていい。

 とは言え、「健康であること」という薄氷の上に立っている感じで、ひどく危なっかしい。

 この記事は、Kさんの了解を得ずに書いている。お許しを願いたいと思います。

 別館として、写真俳句ブログの「いのちの囁き」を開いております。

 ご覧いただけると嬉しいです。

   → こちら

 

 

   

 

 

コメント (10)
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