新・ほろ酔い気分

酔っているような気分のまま、
愚にもつかない身辺雑記や俳句で遊んでおります。
お目に留めて下されば嬉しいです。

わが家は婦唱夫随

2008年03月09日 16時15分33秒 | 身辺雑記

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夫唱婦随(その1)  2008年3月9日

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夫唱婦随(その2)  2008年3月9日

 風はなく、穏やかな日だった。

 その日和に誘われて、カメラを手に公園をぶらついた。

 家族ぐるみや老夫婦の散歩を、幾組も眼にした。

 若い一家がシートを敷き、昼食をとっている羨ましい光景を見ることもできた。

 3代女性と思われるグループが、和やかにお茶を飲んでいる姿も見た。お婆ちゃん、お母さん、娘さんの3人。

 30代後半の父親と小学生の男の子がキャッチボール。

 若い夫婦のバドミントン。

 腰を弱めているらしい老母と手を引く50代男性。2組も眼にした。

 それぞれ見事な生活ぶりを見せてくれていた。

 今日の写真は、野鳥の夫唱婦随ぶり。やはり春である。

 どちらが「夫」でどちらが「婦」なのか、私には見分けられない。

 いずれのカップルも、同じ方向を向いていて愛くるしい。

 いつのころからか、わが家は「婦唱夫随」。

 ひょっとしたら子供が生まれたころから、すでにその形式になっていたかもしれない。

 私の子育て様式は、カミさん依存型ないしは責任放棄型だったように思う。

 仕事、仕事、仕事。

 当然のような顔をして、子育てをカミさんに押しつけていた。

「頼りきっていた」と言えば恰好いいが、子育ての責任を放棄していたと言われても反論はできない。

「周りの人もそうだった」と言っても、それは逃げ口上にしか過ぎない。

 だから今、公園での家族団らん風景を見せられると、胸キュンになってしまうのだ。

 経済急成長時代の産業戦士だったと言えば聞こえもいいが、つまりは家庭を振り返る責任感がなかったと追及されれば、グーの音もでない。

 企業も男たちも、仕事を言い訳にして、家庭を顧みなかった。

 それが「少子化」の一因だったかもしれない。

 今の私は、そのような過去の自分を悔いている。

 しかも、悔いの思いや詫びの言葉を口にもできず、平然を装っていたり、じっと俯いたりしている。

 その結果かどうか、わが家の今は、「婦唱夫随」。

 悔いや詫びのシルシだと思っているのだが、考えてみれば、形は「責任放棄」になっていないか。

 

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コメント (14)
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