風はなく、穏やかな日だった。
その日和に誘われて、カメラを手に公園をぶらついた。
家族ぐるみや老夫婦の散歩を、幾組も眼にした。
若い一家がシートを敷き、昼食をとっている羨ましい光景を見ることもできた。
3代女性と思われるグループが、和やかにお茶を飲んでいる姿も見た。お婆ちゃん、お母さん、娘さんの3人。
30代後半の父親と小学生の男の子がキャッチボール。
若い夫婦のバドミントン。
腰を弱めているらしい老母と手を引く50代男性。2組も眼にした。
それぞれ見事な生活ぶりを見せてくれていた。
今日の写真は、野鳥の夫唱婦随ぶり。やはり春である。
どちらが「夫」でどちらが「婦」なのか、私には見分けられない。
いずれのカップルも、同じ方向を向いていて愛くるしい。
いつのころからか、わが家は「婦唱夫随」。
ひょっとしたら子供が生まれたころから、すでにその形式になっていたかもしれない。
私の子育て様式は、カミさん依存型ないしは責任放棄型だったように思う。
仕事、仕事、仕事。
当然のような顔をして、子育てをカミさんに押しつけていた。
「頼りきっていた」と言えば恰好いいが、子育ての責任を放棄していたと言われても反論はできない。
「周りの人もそうだった」と言っても、それは逃げ口上にしか過ぎない。
だから今、公園での家族団らん風景を見せられると、胸キュンになってしまうのだ。
経済急成長時代の産業戦士だったと言えば聞こえもいいが、つまりは家庭を振り返る責任感がなかったと追及されれば、グーの音もでない。
企業も男たちも、仕事を言い訳にして、家庭を顧みなかった。
それが「少子化」の一因だったかもしれない。
今の私は、そのような過去の自分を悔いている。
しかも、悔いの思いや詫びの言葉を口にもできず、平然を装っていたり、じっと俯いたりしている。
その結果かどうか、わが家の今は、「婦唱夫随」。
悔いや詫びのシルシだと思っているのだが、考えてみれば、形は「責任放棄」になっていないか。
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