新・ほろ酔い気分

酔っているような気分のまま、
愚にもつかない身辺雑記や俳句で遊んでおります。
お目に留めて下されば嬉しいです。

いきなり空襲警報!

2008年03月11日 07時25分58秒 | コラム・エッセー

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蕾の微笑み   2008年3月9日

 公園の桜は、まだ固い蕾だった。

 その中でこの桜だけ、蕾がふくらみ始めていた。春が着実に歩を進めている。

 63年前の昨日、昭和20年3月10日、東京は米軍のB29爆撃機344機によって大空襲を受けた。

 この空襲によって、約10万人が死亡した。

 ここからの記事、前にも触れたかも知れないが、東京大空襲にちなみ改めて……。

 それから4ヶ月後の昭和20年7月19日、私が住んでいた茨城県北部も、B29爆撃機による焼夷弾爆撃を受けた。

 当時の私たちは、早々と夕食を食べて、山をくり抜いたトンネルへ避難していた。

 通常は「警戒警報」が発令され、敵機の進路に応じて「空襲警報」に変わって行く。

 しかし当夜は、いきなりの「空襲警報」だったと記憶している。

 今にして思えば、当時の防空管制網はその程度だったのだ。

 (考えて見れば、現在のノーテンキもかなりなもの。変わりなしか!)

 B29がどこから侵入したのか。

 どこを爆撃したのか。

 どの経路で退去していくのか。

 気づいた時には、空一杯になったB29編隊が、海に向かって飛んでいた。

 後日に聞いた話によると、鹿島灘から侵入したB29爆撃機が、福島県のどこかを爆撃しての帰り道、落とし損ねた焼夷弾を我が町に落としたらしい。

 神社の森の上方から、パラパラと小さな光が落下してきた。

 トンネルの付近にも幾つかの焼夷弾が落ちたが、幾人かの防火活動で鎮火した。

 町のほうからは大きな炎が上がっていた。

 状況を見に行っていた父が、「ウチも駄目らしいな」と言いながら帰ってきた。

 国民学校5年生だった私は、妹を背負って赤い煙を見ていた。  

 翌朝に火は治まった。幸いわが家は焼けなかった。

 100メートル付近まで燃えてきたいたが、わが家周辺の何軒かが残っていた。

 その折りの恐怖は、もう記憶にはない。

 次の日から、狭いわが家に3世帯が住むようになった。

 親子3人が四畳半、親子5人が六畳、親子7人が八畳の間に寝起きすることになったのだ。

 今になって思えば、かなり窮屈だったはずだ。

 苦情も出ずに、何ヶ月かを過ごした。

 親たちの知恵によって、諍いは回避されていた。

 愚痴や苦情の多い今から見れば、考えられないような我慢の時代だった。

 それから約1月後、日本は敗戦を迎えた。

 あのころのことを考えれば、不満は贅沢なのだろうかな。

 しかし、不満は進歩に繋がるんだよね。

 兼ね合いが難しい。

 

 

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コメント (14)
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