公園の桜は、まだ固い蕾だった。
その中でこの桜だけ、蕾がふくらみ始めていた。春が着実に歩を進めている。
63年前の昨日、昭和20年3月10日、東京は米軍のB29爆撃機344機によって大空襲を受けた。
この空襲によって、約10万人が死亡した。
ここからの記事、前にも触れたかも知れないが、東京大空襲にちなみ改めて……。
それから4ヶ月後の昭和20年7月19日、私が住んでいた茨城県北部も、B29爆撃機による焼夷弾爆撃を受けた。
当時の私たちは、早々と夕食を食べて、山をくり抜いたトンネルへ避難していた。
通常は「警戒警報」が発令され、敵機の進路に応じて「空襲警報」に変わって行く。
しかし当夜は、いきなりの「空襲警報」だったと記憶している。
今にして思えば、当時の防空管制網はその程度だったのだ。
(考えて見れば、現在のノーテンキもかなりなもの。変わりなしか!)
B29がどこから侵入したのか。
どこを爆撃したのか。
どの経路で退去していくのか。
気づいた時には、空一杯になったB29編隊が、海に向かって飛んでいた。
後日に聞いた話によると、鹿島灘から侵入したB29爆撃機が、福島県のどこかを爆撃しての帰り道、落とし損ねた焼夷弾を我が町に落としたらしい。
神社の森の上方から、パラパラと小さな光が落下してきた。
トンネルの付近にも幾つかの焼夷弾が落ちたが、幾人かの防火活動で鎮火した。
町のほうからは大きな炎が上がっていた。
状況を見に行っていた父が、「ウチも駄目らしいな」と言いながら帰ってきた。
国民学校5年生だった私は、妹を背負って赤い煙を見ていた。
翌朝に火は治まった。幸いわが家は焼けなかった。
100メートル付近まで燃えてきたいたが、わが家周辺の何軒かが残っていた。
その折りの恐怖は、もう記憶にはない。
次の日から、狭いわが家に3世帯が住むようになった。
親子3人が四畳半、親子5人が六畳、親子7人が八畳の間に寝起きすることになったのだ。
今になって思えば、かなり窮屈だったはずだ。
苦情も出ずに、何ヶ月かを過ごした。
親たちの知恵によって、諍いは回避されていた。
愚痴や苦情の多い今から見れば、考えられないような我慢の時代だった。
それから約1月後、日本は敗戦を迎えた。
あのころのことを考えれば、不満は贅沢なのだろうかな。
しかし、不満は進歩に繋がるんだよね。
兼ね合いが難しい。
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