
kan-haru blog 2007
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品川神社本殿
浅間神社付近から境内には、沢山の露天が出ており、そこから鳥居を二つ潜ると正面が品川神社本殿です。本殿直前にある石造鳥居は、1648年(慶安元年)に三代将軍徳川家光公の側近の堀田正盛の奉納で、上野東照宮に次いで都内では二番目に古いもので、石造水船(水盤)と共に奉納され品川区指定の有形文化財(建造物)です。

石造鳥居 品川神社本殿
現在の社殿は、大東亜戦争では戦火を免れましたが、老朽化により1964年(昭和39年)に新築され、境内には阿那稲荷社上社・下社、御嶽神社、浅間神社、道祖神社(石祠)等の末社と神楽殿があります。末社の浅間神社の参道に置かれている石造燈篭(写真再掲)は、慶安元年に亀岡政重(石工)と後藤光利(装剣具彫刻工)が寄進したもので、品川区指定の有形文化財(建造物)です。

阿那稲荷社

石造水船(水盤) 宝物殿正面安置が葵神輿
御由緒
1187年(文治3年)に、源頼朝公が安房国洲崎明神の「天比理乃命」をお迎えして、海上交通安全と祈願成就を祈られたのを創始とします。
鎌倉時代末期の1319年(元応元年)に、二階堂道蘊公が「宇賀之売命(お稲荷様)」を、室町時代中期の1478年(文明10年)に、太田道灌公が「素盞鳴尊(天王様)」をそれぞれお祀りしました。
1600年(慶長5年)に、徳川家康公が関が原の戦いの出陣の際に参拝して戦勝を祈願され、その後の祈願成就の御礼に「天下一嘗の面」などを奉納されました。
1637年(寛永14年)に、三代将軍徳川家光公により東海寺が建立され、当社が鎮守と定められ「御修復所」となり、1694年(元禄7年)、1850年(嘉永3年)と二度の社殿焼失の際には、時の将軍の命により再建が行われる等、徳川家の庇護を受けました。
1868年(明治元年)には、明治天皇が新都東京の安寧と国家の繁栄を祈願されるため、当社を含む十社が「准勅祭神社」と定められました。
宝物殿
本殿の左に宝物殿があり、例大祭、正月、ゴールデンウィーク、11月の土・日・祝日、神社の祭典日に入場無料で公開され、葵の神輿や書軸、文書、面などの文化財が展示されております。
・葵神輿
嘉永年間に徳川家光公の奉納で、江戸時代初期に作られた貴重な神輿で屋上に鳳凰を置き、胴の前部が唐戸で他の三面が牡丹唐草文毛彫の金銅板で飾り、屋根は立花文の型押しの金銅板で覆い、三葉葵の紋を四方に打ち出した神輿で、品川区指定の有形文化財(工芸品)です。明治時代に、勝海舟が「葵神輿」と名付けました。
宝物殿には、葵神輿の台棒金具が公開展示されています。
神輿の渡御の準備
神社をお参りし、宝物殿を見学してから境内の北側にある坂の参道を降ると、竜の彫り物の鳥居の左右の広場で、9日に行う町内神輿の連合渡御の惣町神輿と、10日に行われる宮神輿連合渡御の大・中神輿の準備をしておりました。

大神輿
皇室に御慶事のあった年に渡御する「大神輿(通称・千貫神輿)」は、1884年(明治17年)の奉納の神輿で、例年に渡御する「中神輿」は1924年(大正13年)に奉納された神輿です。
大・中の神輿の台座には穴が無く、担ぎ棒の台座下部には凹部が付けられていて、鳳凰と蕨手と担ぎ棒を太い綱で締め上げて固定します。

中神輿 連合渡御の惣町神輿
渡御は、神輿の脇に大拍子を付け「品川拍子」を打ちながら行いますので、台座の下の縦棒は二本のみで、担ぎ手は前後に付けられた横棒を担ぎます。
渡御の神輿には、徳川家康公の奉納の「天下一嘗の面」の御神面を屋根に付け、「品川拍子」の拍子によって、お神輿の進行に緩急をつけたり、上げ下ろしが行われます。
・天下一嘗の面(国常立尊面・赤面さま)
徳川家康公の奉納で、室町時代の中期の作とみられ、江戸時代中頃の疫病が流行した時、「この面を神輿に付け町々を廻れば苦しみから救うぞ」との神様のお告げがあり、六月の例大祭にこの面をお神輿につけて渡御し、無病息災・幸福招来を祈願します。
・品川拍子
品川拍子は、「大拍子」と呼ばれる締め太鼓と、篠笛によって奏されます。起源は江戸時代初期の神輿奉納の時と伝えられており、現在伝承のものは明治時代中頃に、品川神社太太神楽と祭り囃子を加味して作曲したもので、「品川拍子保存笛睦会」会員により伝承されており、品川区指定の無形民族文化財(風俗習慣)です。
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品川神社本殿
浅間神社付近から境内には、沢山の露天が出ており、そこから鳥居を二つ潜ると正面が品川神社本殿です。本殿直前にある石造鳥居は、1648年(慶安元年)に三代将軍徳川家光公の側近の堀田正盛の奉納で、上野東照宮に次いで都内では二番目に古いもので、石造水船(水盤)と共に奉納され品川区指定の有形文化財(建造物)です。

石造鳥居 品川神社本殿
現在の社殿は、大東亜戦争では戦火を免れましたが、老朽化により1964年(昭和39年)に新築され、境内には阿那稲荷社上社・下社、御嶽神社、浅間神社、道祖神社(石祠)等の末社と神楽殿があります。末社の浅間神社の参道に置かれている石造燈篭(写真再掲)は、慶安元年に亀岡政重(石工)と後藤光利(装剣具彫刻工)が寄進したもので、品川区指定の有形文化財(建造物)です。

阿那稲荷社

石造水船(水盤) 宝物殿正面安置が葵神輿
御由緒
1187年(文治3年)に、源頼朝公が安房国洲崎明神の「天比理乃命」をお迎えして、海上交通安全と祈願成就を祈られたのを創始とします。
鎌倉時代末期の1319年(元応元年)に、二階堂道蘊公が「宇賀之売命(お稲荷様)」を、室町時代中期の1478年(文明10年)に、太田道灌公が「素盞鳴尊(天王様)」をそれぞれお祀りしました。
1600年(慶長5年)に、徳川家康公が関が原の戦いの出陣の際に参拝して戦勝を祈願され、その後の祈願成就の御礼に「天下一嘗の面」などを奉納されました。
1637年(寛永14年)に、三代将軍徳川家光公により東海寺が建立され、当社が鎮守と定められ「御修復所」となり、1694年(元禄7年)、1850年(嘉永3年)と二度の社殿焼失の際には、時の将軍の命により再建が行われる等、徳川家の庇護を受けました。
1868年(明治元年)には、明治天皇が新都東京の安寧と国家の繁栄を祈願されるため、当社を含む十社が「准勅祭神社」と定められました。
宝物殿
本殿の左に宝物殿があり、例大祭、正月、ゴールデンウィーク、11月の土・日・祝日、神社の祭典日に入場無料で公開され、葵の神輿や書軸、文書、面などの文化財が展示されております。
・葵神輿
嘉永年間に徳川家光公の奉納で、江戸時代初期に作られた貴重な神輿で屋上に鳳凰を置き、胴の前部が唐戸で他の三面が牡丹唐草文毛彫の金銅板で飾り、屋根は立花文の型押しの金銅板で覆い、三葉葵の紋を四方に打ち出した神輿で、品川区指定の有形文化財(工芸品)です。明治時代に、勝海舟が「葵神輿」と名付けました。
宝物殿には、葵神輿の台棒金具が公開展示されています。
神輿の渡御の準備
神社をお参りし、宝物殿を見学してから境内の北側にある坂の参道を降ると、竜の彫り物の鳥居の左右の広場で、9日に行う町内神輿の連合渡御の惣町神輿と、10日に行われる宮神輿連合渡御の大・中神輿の準備をしておりました。

大神輿
皇室に御慶事のあった年に渡御する「大神輿(通称・千貫神輿)」は、1884年(明治17年)の奉納の神輿で、例年に渡御する「中神輿」は1924年(大正13年)に奉納された神輿です。
大・中の神輿の台座には穴が無く、担ぎ棒の台座下部には凹部が付けられていて、鳳凰と蕨手と担ぎ棒を太い綱で締め上げて固定します。

中神輿 連合渡御の惣町神輿
渡御は、神輿の脇に大拍子を付け「品川拍子」を打ちながら行いますので、台座の下の縦棒は二本のみで、担ぎ手は前後に付けられた横棒を担ぎます。
渡御の神輿には、徳川家康公の奉納の「天下一嘗の面」の御神面を屋根に付け、「品川拍子」の拍子によって、お神輿の進行に緩急をつけたり、上げ下ろしが行われます。
・天下一嘗の面(国常立尊面・赤面さま)
徳川家康公の奉納で、室町時代の中期の作とみられ、江戸時代中頃の疫病が流行した時、「この面を神輿に付け町々を廻れば苦しみから救うぞ」との神様のお告げがあり、六月の例大祭にこの面をお神輿につけて渡御し、無病息災・幸福招来を祈願します。
・品川拍子
品川拍子は、「大拍子」と呼ばれる締め太鼓と、篠笛によって奏されます。起源は江戸時代初期の神輿奉納の時と伝えられており、現在伝承のものは明治時代中頃に、品川神社太太神楽と祭り囃子を加味して作曲したもので、「品川拍子保存笛睦会」会員により伝承されており、品川区指定の無形民族文化財(風俗習慣)です。
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