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先立つものがないので教育改革などできない

2019-11-24 21:44:21 | 読書ノート
広田照幸『教育改革のやめ方:考える教師,頼れる行政のための視点』岩波書店, 2019.
広田照幸『大学論を組み替える:新たな議論のために』名古屋大学出版会, 2019.

  『教育は何をなすべきか』以来の教育学者・広田照幸による新著。『教育改革~』は9月に、『大学論~』は10月に発行されている。どちらも既発の論文や講演原稿をまとめた編集書籍である。

  『教育改革~』は初等・中等教育を対象とした近年の改革を俎上に載せている。新しい教員養成方法やら「主体的・対話的で深い学び」やらの話だ。これらが教育現場を疲弊させている、という批判は聞いたことがあるだろう。意外にも、著者はそうした改革の理念に対して反対していない。しかし、それを現場に適用するやり方や資源不足を理由として、その効果に疑義を呈している。教育現場で何か新しいことをしたいというならば、政府はまず現状の教員の仕事を削って予算をつけろということだ。教育関係者には参考になるはずである。

  『大学論~』はタイトル通り大学改革を対象とする。大学の質保証や授業や研究の評価、ガバナンス、学問の自由との関連について論じられている。こちらは読者が大学関係者に限られる内容であり、評価に関する議論などはやや専門的である。著者の言わんとするところを大雑把にまとめれば、外部の評価者(文科省含む)が使う物差しは一面的であるがために、大学人に十分受け入れられず、混乱だけをもたらしている、と。ただし、内部者が自らの教育・研究改善のためにおこなう評価は生産的になりうるとも加えている。

  以上。二著の主張はおおむね同意できる。簡単に言えば現場の教員を重視しろということである。ただし、一方で触れられていない論点もある。教育内容の話である。近年の教育改革がやろうとしていることの一つに、新しい学問領域(例えばプログラミング)を導入する一方で、これまでの領域を少々削るというのがある。各教員の専門性と結びついた教科や講座はある種の利権だから、新教科の導入や専門の授業数の削減は教員間の対立を引き起こすだろう。これは現場では解決できない問題である。というわけで、学校経営者や文科省の出番があるのだが、そうした調整(+強制)という役割については考察されていない。

  近年の教育内容の変更・要請については、経済界の要請にすぎないと言える。ならば、経済成長以外の多様な目的を掲げる公教育機関はそれを無視すればいいのだろうか。新しい(しかも仕事に有利な)知識を公教育制度の外に置いておくならば、富裕層の子弟だけが塾などを使ってそれを習得し、そうでない層は身に付ける機会がないという結果となる可能性がある。そうなると格差は再生産され、学校は不要な教育をしていると今よりさらに強い批判を受けるだろう。こういう教育内容の取捨選択のような、現場を対立させる論点についての著者の意見も聞きたかった。
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