世界 民主主義の戦い

世界 民主主義の戦い


ロシア

ロシアは、大統領、国会議員は国民の選挙で選ぶ。議会は国家院と連邦院の二院からなる議院内閣制である。プーチン大統領は国民が選んだ。しかし、プーチン大統領は独裁者と呼ばれている。国民の選挙で選ばれているにも関わらず独裁者なのである。
プーチン大統領は対立する候補を暗殺したり、刑務所に送り、対抗馬を排除していった。プーチン大統領が確
実に選出されるようにしたのである。ロシアは議会制民
主主義の形態ではあるが実態はプーチン独裁国家である。議会はプーチンの要求する法律を制定するプーチン独裁下請け機関である。
ウクライナ戦争はウクライナの民主主義を守る戦いであるととともにプーチン独裁を倒す戦いでもある。ロシア軍が敗北すればプーチンの権威は失墜する。ロシアの報道規制が崩れて自由になり、ロシア軍がウクライナでやった残虐な行為をロシア国民は知ることになる。プーチン独裁が崩壊するだろう。
タイ
 タイは立憲君主制である。1932年6月24日にタイ王国(シャム王国)で勃発した立憲革命は、タイを絶対君主制から立憲君主制へと移行させた。 革命は、主に平民出身で構成された文民と軍人の官僚により組織された人民党によって行われた。文民と軍部の対立が激しくなっていき、政権維持に不利になると軍部はクーデターを起こして文民勢力を弾圧した。。
 2006年タイ王国軍の反タクシン首相派の将校が下士官・兵士を率いて、タクシン政権を倒した。タクシン氏を国外追放した。
 2014年の軍事クーデター。2011年の総選挙でタイ貢献党が勝利し、第31代首相のタクシン・チナワットの妹であるインラック・シナワトラが第36代首相に就任したが軍部の圧力で失職した。2014年に行われた総選挙は反政府派(軍部関係集団)による妨害で一部選挙区では投票が行えず、選挙が無効になった。軍部による政権が続いた。
首都バンコクの知事選が今月22日に投開票された。当選したのは2014年5月の軍事クーデターで政権を追われたインラック内閣の元運輸相チャチャート氏(55)。2位に入ったスチャチャウィー氏(民主党)以下に100万票以上の大差をつけた圧勝だった。
選挙によって民主派が勢力を拡大しているタイである。

ミャンマー

 2020年の総選挙でスーチー氏の国民民主連盟が圧勝した。民主派の圧勝に危機を抱いた軍部はクーデターを起こし、スーチー氏や幹部を拘束して権力を奪った。軍部が支配するミャンマーである。
 軍部政権打倒で立ち上がった挙国一致政府は、各地に散らばる民主派武装勢力「国民防衛隊(PDF)」などによる武装闘争「防衛戦」の開始を2021年9月7日に宣言。国軍に長年抵抗する少数民族武装勢力も取り込み、武力によって軍政打倒を図ろうとしている。

民主主義の戦いはイラン、アフガンても始まった。

アフガニスタン

 駐留20年がたった2021年に米軍はアフガンから撤退した。米国が築いた議会制民主主義はあっけなく崩れた。タリバンとの戦争では簡単に敗北し、大統領は国外逃亡した。
 タリバンが政権を握ったアフガンはイスラム教政権になった。そのまま安定したタリバン政権が続くだろうと思っていた。
タリバンが実権を掌握して以来、アフガン女性は公共の場から締め出された。全国の公立と私立の大学で女子教育を停止した。女性公務員はほとんどが失職した。
 女性は男性の親族同伴でなければ旅行できず、外出時には全身を覆わなければならなくなった。公園や遊園地、スポーツジム、公衆浴場に入ることも禁じられた。女子教育を行う学校も大半が閉鎖された。

タリバン政府の女性差別に対して女性たちは立ち上がった。アフガニスタンの首都カブールで、国連(UN)の「女性に対する暴力撤廃の国際デーを前に、十数人の女性が短時間の抗議デモを行った。参加した女性の多くはサングラスを掛け、頭髪を覆い、医療用マスクで顔を隠していた。うち1人が手にしたプラカードには、「私たちは最後まで権利のために闘い、決して降伏しない」とダリー語で書かれていた。
 首都のカブール大学の近くで女性約50人が「教育は我々の権利だ。大学は開かれるべき」と訴え、抗議デモを行った。東部ジャララバードでも、大学の前で女性と男性の参加者がともにプラカードを掲げ抗議した。

女子に教育をしている団体もある。「地下学校」である。
 タリバンによる政権奪取以降、アフガニスタン国内でも市民たちによる抵抗が広がっている。その一つの形が学校に通えない少女たちがひそかに勉強を教わる「地下学校」である。「地下学校」には二つの種類がある。一つは個人の自宅などでひっそりと少人数を集めて勉強を教えるものである。存在自体が秘密にされている。もう一つが「地下学校」である。「地下学校」は、タリバン政権の教育省から「専門学校」の認可を得ている。表向きは女性が編み物や刺繍、コーランなどを学ぶ学校ということになっている。それは「隠れ蓑」で、女子が学ぶことを禁止されている英語や数学、物理、歴史など中等教育の教科も教えている。
地下学校の修了式の様子
 市内の住宅街の一画、1階が商店、2階以上がアパートの小さなビルの地下に、日本の学校のクラス二つ分ほどの広さのホールがあり、風船で飾り付けられたステージが作られていた。ヒジャブと長衣をまとった少女たちが次々に入ってきてホールは満杯になった。その数100人以上。これほどの数の生徒たちが集まった「地下学校」の映像はメディアでも見たことがない。この「学校」は6カ月が1学期で、きょう行われるのは学期末の修了式だという。
 式典で生徒一人ひとりに修了証を手渡すのは40歳代の女性の校長先生。記念撮影をしたあとは、大きな書物の形をしたケーキにナイフを入れ、校長が生徒たちの口に小さく切ったケーキを放り込んで、厳かななかに笑い声がもれる楽しい会となった。修了生を代表して一人の女子生徒が英語でスピーチを行った。テーマは「女性について」。
「コーランによれば、女性は男性と同じく社会の重要な役割を果たすべきである。また、知識を求めることはすべてのムスリムの義務である。私たちはタリバンに女子の学校を開くよう、女子が科学を勉強することを禁じることをやめるよう要求する」
 慣れない英語でたどたどしく、しかし堂々と仲間に語りかける。あどけなさの残る女子であるが自立の精神をしっかりと持っている。自立心旺盛な女性をアフガン社会は生み出している。

 校長はこの「地下学校」を去年10月、たった一人で立ち上げた。学校の教員だった彼女は、女性に差別的なタリバンの施策を見て辞職。「学校に行けなくなったと絶望して泣く少女たちを見て、いてもたってもいられなくなりました。他人事ではありません。私にももう少しで中等教育の年齢になる女の子がいるのです」という。またタリバンが再び権力を奪ったときに国を出た友人もいたが、「みんなが逃げたら、誰がこの国の女性たちのために立ち上がるのでしょう。私は残って闘うことに決めました」と悲壮な決意を語る。

イラン


2022年9月13日、アミニはイランの首都テヘランの駅で、風紀警察に逮捕された。その理由は、ヒジャブの着用方法が不適切だったことと、タイトなズボンを着用していたことであった。アミニはバンに乗せられ、警察署に連行された。連行後、暴行でアミニは意識を失い、カスラ病院に救急車で搬送された。そして16日、死亡が確認された。
アミニの死への抗議活動が勃発した。
北西部のクルディスタン州で追悼式が行われた後、人々は通りに出て、詳細な調査を求めるスローガンを叫び始めた。その後、抗議者たちは知事室の前に集まり、警察は催涙ガスを発射して群衆を解散させた。
警察の厳しい弾圧にも関わらず抗議は拡大していった。抗議はアミニの死への抗議にとどまらず女性の自由への戦いで会ったのだ。
デモ参加者たちは抗議活動のなかで叫んでいる「女性、命、自由」のスローガンを記した横断幕などを掲げていた。デモは女性差別への抗議になっていた。女性たちが自由を求めて立ち上がったのである。
デモは全国に広がっていった。イラン政府の弾圧は厳しくこれまでに18歳未満の子ども64人を含む少なくとも476人が死亡した。
 有名人やスポーツ選手も「女性、生命、自由」運動を支持している。米アカデミー賞の外国語映画賞を受賞したアリドゥスティ氏はスカーフを被っていない自分の写真をソーシャルメディアに投稿し、反政府抗議の参加者が処刑されたことを非難した。彼女は逮捕された。

 イランとアフガンで女性の自由を求める戦いが始まった。長く困難な戦いになると思う。しかし、弾圧に負けて消滅することはない。弾圧を跳ね除けて勝利すると思う。

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沖縄戦になったのは日本が軍国主義だったから3

沖縄戦になったのは日本が軍国主義だったから3

原敬、浜口雄幸、犬養毅三首相暗殺によって日本は軍国主義になり太平洋戦争に突入する

明治維新から日本の近代化は進み、1889年(明治22年)に大日本帝国憲法が公布された。日本は法治国家になったのである。憲法において議会に予算議定権および立法権が認められたので、藩閥政治のように政府が勝手に政治をすることが制限され、議会の多数党を無視した政権運営は困難になった。議会の多数党になることが必要であり、日本の政治は政党政治に向かっていった。
1918年(大姓7年)9月29日に、衆議院議員・立憲政友会総裁の原敬が第19代内閣総理大臣に任命された原内閣は陸軍大臣・海軍大臣・外務大臣を除く国務大臣に、原敬が総裁を務める立憲政友会の党員を起用したことから、日本初の本格的政党内閣となった。
原内閣は、教育制度の改善、交通機関の整備、産業及び通商貿易の振興、国防の充実の4大政綱を推進した。とりわけ交通機関の整備、中でも地方の鉄道建設のためには公債を発行するなど極めて熱心であった。
「高等諸学校創設及拡張計画」が、4,450万円の莫大な追加予算を伴って帝国議会に提出され可決された。
政党政治を推し進めた原敬首相であったが1921年(大正10年)11月4日に東京駅乗車口(現在の丸の内南口)で暗殺(刺殺)された。暗殺したのは鉄道省山手線大塚駅職員の中岡艮一であった。

原敬暗殺以後も政党政治は犬養毅暗殺まで続いた。
19代 原敬
20代 高橋是清 官僚
21代 加藤友三郎 海軍大将 
22代 山本權兵衞 海軍大将 
23代 清浦奎吾清浦 司法官僚
24代 加藤高明 外交官
25代 若槻禮次郎 大蔵官僚
26代 田中義一 陸軍大将
27代 濱口雄幸 大蔵官僚
28代 若槻禮次郎 大蔵官僚
29代 犬養 毅 政治家

原敬は1921年(大正10年)に刺殺された。9年後の、1930年(昭和5年)11月14日に浜口雄幸が東京駅で佐郷屋留雄に狙撃され1931年(昭和6年)に死亡した。わずか1年後の1932年(昭和7年)5月15日に犬養毅が海軍の青年将校に狙撃されて死亡した。12年間で3人の首相が暗殺されるという異常なことが日本で起こったのである。
犬養毅の暗殺によって原敬から始まった政党政治はわずか10年で崩壊した。政党政治を崩壊させて政権を握ったのが軍部であった。

政治面においては普通選挙制度を求める普選運動や言論・集会・結社の自由に関しての運動、外交面においては国民への負担が大きい海外派兵の停止を求めた運動、社会面においては男女平等、部落差別解放運動、団結権、ストライキ権などの獲得運動、文化面においては自由教育の獲得、大学の自治権獲得運動、美術団体の文部省支配からの独立など、様々な方面から様々な自主的集団による民主化運動が展開された。
その結果軍人や右翼による急進的な体制転換運動が活発になっていった(国家改造運動昭和初期から10年代にかけて,軍人の一部や民間の右翼が標榜した〈国家改造〉のスローガン。1920年代後半から30年代初頭,中国民族運動の発展,国内の恐慌による経済混乱,社会運動の活発化,退廃的世相などに危機感を抱いた彼らは,明治維新以来,日清・日露戦争と日本が発展してきたにもかかわらず,こうした危機が起こってきたのは,政党政治の腐敗に象徴される支配のあり方にあるのだとし,明治維新になぞらえて,第2の〈維新〉を主張した。右翼と軍部は政党政治打倒して軍事政権設立の方向に動いていく。犬養毅暗殺へと展開していく。

犬養内閣の発足当初は、政友会は衆議院で174議席に過ぎない少数与党政権であった。蔵相高橋是清は内閣成立後ただちに金輸出再禁止を断行、金本位制を離脱し管理通貨制度へ移行、さらに立憲民政党政権によるデフレ政策をインフレ政策に転換し世界恐慌以来の不況への対策に矢継ぎ早に取り組んだ。結果的に景気回復への期待や、満州事変・上海事変の戦勝なども政権への追い風となり、1932年(昭和7年)1月の衆議院解散、総選挙で301議席を獲得し衆議院で絶対多数を獲得した。
満州事変は軍部が主導して起こしたものである。犬養内閣は軍事力による満州進出には反対だった。満州事変の後、1932年(昭和7年)の⒊月1日、満州国建国が宣言されたが、犬養内閣はこれを承認しなかった。あくまで中華民国に対しての宥和的姿勢をとった。しかし、これが荒木陸相をはじめとする皇道派の反発を招き、同年5月、血盟団の同志であった海軍青年将校によって犬養が暗殺され(五・一五事件)、宮中席次の序列に則り大蔵大臣であった高橋是清が内閣総理大臣臨時兼任し総辞職した。
この事件以後日本は一気に軍国主義に傾倒していくこととなり、事実上犬養政権は戦前日本最後の政党内閣となった。

30代 齋藤 實 海軍大将
31代 岡田啓介 海軍大将
高橋是清 (岡田啓介内閣の大蔵大臣時代の1936年、「2・26事件」で陸軍青年将校により射殺)
齋藤 実 (岡田啓介内閣の内大臣時代の1936年、「2・26事件」で陸軍青年将校により射殺

32代 廣田弘毅 外交官
33代 林銑十郎 陸軍大将
34代 近衞文麿 貴族院議長
35代 平沼騏一郎 司法官僚
36代 阿部信行 陸軍大将
37代 米内光政 海軍大将
38代 近衞文麿
39代 近衞文麿
40代 東條英機 陸軍大将のまま首相就任する
東條は首相就任に際して大将に昇進しているが、これは内規を変更して行ったものである。東条内閣で完全な軍部独裁政権となる。軍部が政権を握った日本はアジアで戦争を拡大していく。

犬養首相が暗殺されないで政党政治が続いていたら、日本の民主化は進み、アジアの軍事による拡大もなかっただろう。政治が主導権を握ったアジア進出であれば平和的なアジア拡大になっていたはずである。
 
東条政権は対米交渉最大の難問であった中国からの撤兵要求について、すぐにということではなく、中国国内の皇の意思の実現に全力を尽くそうとした。しかし、米国は民主主義国家である。支配階級の皇の意思を尊重する日本政府側の提案はフランクリン・ルーズベルト政権には到底受け入れられるはずはなかった。、組閣から約40日後には東条政権の要求は崩れ去ってしまう。 これによって東條内閣は交渉継続を断念した。対米開戦を決めるのである。
軍国主義国家になった日本は真珠湾攻撃をやり、米国との戦争を始めた。
政党政治であったなら米国との政治交渉を積み重ね、米国との妥協を目指していたはずである。国民、経済のことを重視するからだ。軍部が政権を握ることによって国民、経済よりもアジア支配拡大が優先された。

1941年(昭和16年)12月8日、日本はマレー作戦と真珠湾攻撃を敢行、太平洋戦争が始まった。両作戦が成功したのちも日本軍は連合国軍に対して勝利を重ね、海軍はアジア太平洋圏内のみならず、インド洋やアフリカ沿岸、アメリカ本土やオーストラリアまでその作戦区域を拡大した。開戦4日後の12月12日の閣議決定において、すでに戦闘中であった支那事変(日中戦争)も含めて、対連合国の戦争の呼称を「大東亜戦争」とするとされた。
米国との戦争を始めた東条政権は開戦の翌日早朝を期して、反勢力の396人の身柄を一方的に拘束した。これは2.26事件のときにも満州国において関東軍憲兵隊司令官として皇道派の軍人の拘束や反関東軍の民間人の逮捕、監禁などの処置を行った経験に基づくものである。独裁政権の常套手段である。

原敬、浜口雄幸、犬養毅三首相暗殺によって軍部が政権を握ったのである。軍国主義国家になったから日本は真珠湾攻撃し太平洋戦争に向かったのである。

戦争が終盤になってくると日本軍の敗戦が続いた。ソロモン諸島、ニューギニア島、フィリピン、台湾と日本軍は後退していった。国民に選出された政権であったなら、国民の命を守るために敗北宣言をして戦争を終わらせていたはずである。しかし、軍独裁政権は本土決戦をやる覚悟でいた。日本が軍国主義だったから沖縄戦になったのである。政党政治の日本だったら沖縄戦になる前に敗北宣言をして、沖縄戦にはならなかったはずである。

1932年5月15日の五・一五事件は軍部クーデターである。それ以後の日本は軍部が政権を握った軍独裁政権である。
封建社会の徳川幕府を倒して四民平等の明治政府になった。民主化がゆっくりと進んでいたが軍部クーデターで日本は軍の独裁政権になったのである。
 軍独裁政権でなければ政治交渉をすることによって米国との戦争はしなかっただろう。だから沖縄戦はなかった。米国と戦争になったとしても沖縄戦になる前に敗北宣言して沖縄戦になることはなかった。

民主化が進んでいたミャンマーは軍のクーデターで軍独裁国家になった。タイも軍クーデターによって軍事政権になった。ロシアは1991年に社会主義が崩壊し、大統領と国会議員は国民選挙で選ぶ民主主義体制になった。しかし、。KGBのプーチンは対抗する候補者を暗殺したり刑務所に入れたりして対抗勢力を潰した。だから、立候補するのはフーチンに従う者たちである。対抗勢力を排除することによってロシアをプーチン独裁政権にした。ロシアは議会制民主主義体制でありながらプーチン独裁国家である。
民主主義に向かい始めている時に軍などが政権を握って独裁政権になるケースは多い。日本も民主化方向に進んでいる途中で軍事独裁になった国である。

日本は敗戦した。だが、政治の視点から見れば日本が戦争に負けたというより軍事独裁政権が敗北したのである。戦後の日本は軍事独裁から議会制民主主義になった。軍のクーデターによって犬養首相が暗殺され、軍独裁政権になったが敗戦によって軍独裁政権は崩壊し、政党政治がより発展した状態で復活したのである。戦勝国である米国の内政介入があったが、日本はより質の高い議会制民主主義国家になった。
戦後の沖縄は米国の統治を経て、日本復帰して日本の地方自治体となった。戦後77年間戦場になることはなかった。これからも沖縄が戦場になることはない。

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沖縄戦になったのは日本が軍国主義だったから2

沖縄戦になったのは日本が軍国主義だったから2

 日本は軍国主義国家であったのかなかったのか
5・15事件をきっかけに日本は軍国主義へまい進していった。日本が軍国主義だったために沖縄戦があり10万人の住民が死んだことを説明していこうと思っていたが、戦前は軍国主義国家ではなかったという意見があり、明治からずっと軍国主義だったという意見もあることを知った。戦前は軍国主義国家であったのかそれとも軍国主義国家ではなかったのか。沖縄戦について説明する前に両方の意見を検討してみることにした。

日本は明治から軍国主義であったと言う説
 明治から軍国主義であったとする説の根拠は、
日本は帝国主義・富国強兵を宣言した国家であり、明治維新後、日清戦争、北清事変、日露戦争、第一次世界大戦、シベリヤ出兵、山東出兵、満州侵略、盧溝橋事件とそれに続く中国大陸侵略拡大、張鼓峰事件、ノモンハン事件、海南島侵略、仏印侵略、そして米英に対する開戦と日本は戦争ばかりやっていたし、戦争に反対する者は徹底して弾圧した。戦争、弾圧すべてが軍(主に陸軍)主導でやっていたから日本は軍国主義であったという説である。

 確かに戦前の憲法は大日本帝国憲法であり、日本が帝国主義国家であることを宣言したことは確かである。日本が帝国主義国家であったことは否めない。
富国強兵を掲げていた明治政府は明治6(1873)年に徴兵令を布告した。対象年齢となった男子はすべて徴兵検査を受けなければならなかったし、徴兵検査に合格した男子は日本軍に入隊して軍事訓練を受けなければならなかった。そして、国が赤札で徴兵すると軍隊に入り、戦地に行かなければならなかった。国民は皆兵であった。
明治政府が徴兵令を布告し国民皆兵にしたのは軍隊を強化するのが目的であった。軍隊を強くした理由は軍事力で大陸に進出して植民地を獲得するためであった。植民地を獲得するために軍隊を強くしていったのが憲法を「大日本帝国」と帝国を掲げたことで分かる。しかし、帝国主義、富国強兵だから軍国主義というのは間違いである。
イギリスやオランダなど戦前のヨーロッパの国々はアフリカやアジアに植民地を持っていた。植民地にするために強い軍隊をつくり、アフリカやアジアの国々に武力で侵略したのである。しかし、イギリスは軍国主義国家ではなかった。議会政治国家だった。日本が帝国主義・富国強兵を目指していたから軍国主義国家であると決めつけるのは間違っている。
 軍国主義国家とは軍部が政権を握ることである。帝国主義、富国強兵の国家であっても国家の政権を政治家が握っていたら軍国主義国家ではない。
 
 明治維新の後、立憲政治・議会制度の創設が論議されるなかで、1870年代には福澤諭吉をはじめとする三田派の言論人たちを中心に政党内閣制を採用するように主張され始めた。
明治初期時代は藩閥政治であったが政府内部でも政党政治への動きがあり明治14年(1881年)3月に参議大隈重信がイギリスをモデルとする議会政治の早期実現を主張し、政党内閣による政権運営を求めて意見書を提出した。しかし、右大臣岩倉具視の提出したプロイセンをモデルとする立憲君主制の提案が採用された。
明治政府は軍人が首相になることもあったが、政治家中心の政治であり軍人中心政治にはならなかった。
明治時代には議院内閣制は採用されなかったが、大正時代に入ると、大正デモクラシーを背景に政党の勢力を伸張していき、1912年の第1次護憲運動の後、大正7年(1918年)9月に立憲政友会の原敬が内閣を組閣した。この内閣は閣僚の大半が政党所属であった。原は藩閥ではなく現役衆議院議員であったから現役衆議院議員の初の首相であった。
原敬は右翼少年に暗殺されるが、原内閣以後も政党が政権を握る政党内閣が続いた。
陸軍・海軍や枢密院、官僚などの勢力は強く、政党内閣の政権下でも依然として大きな政治的発言力があり、政党内閣の政権運営に介入していたことは事実であるが、明治から大正、昭和初期まで政治家が政権を握っていたのは確かである。軍部の勢力は強かったが軍国主義国家ではなかった。しかし、1932年5・15事件以後から軍国主義が始まったと私は考えている。

戦前は軍国主義国家ではなかったという説
軍国主義ではなかったという説では、満洲事変前後から軍部が台頭し、政治への強い干与がはじまったことは事実であると認めている。そして、五・一五事件、二・二六事件後、軍中央部が政治への強い発言権を持つようになったことも事実であると認めている。加えて、国家総動員法の成立、大政翼賛会の結成に軍部の強い支持があったことも事実であると認めている。それらを認めた上で日本は軍国主義ではなかったというのである。

軍国主義ではなかった根拠に上げたのが「革新」派の存在である。「革新」派とは満洲事変以後にナショナリズムの昂揚とともに現状打破を主張して台頭してきた勢力である。
「革新」派は軍部だけでなく、政党各派、官僚に加え民間の中にも多数存在した。「革新」派はナチス傾倒者、左翼からの転向者、右翼、民族派など幅広く存在した。
こうした大きな政治潮流の背景をぬきにして軍部の台頭のみを抽出して論じるのは、歴史に対する公正な態度とはいえないというのが戦前は軍国主義国家ではなかったと主張する側の主張である。軍国主義国家ではなかった派は、軍部も含めそれらの勢力を生んだ政治的思想的潮流こそ問題にすべきであるというのである。

軍国主義国家ではなかった派は「軍国主義」とか「ファシズム」の指標とされる大政翼賛会についても取り上げている。大政翼賛会へ向う新体制運動につながる中核グループには「東亜建設国民聯盟」の結成があり、「東亜建設国民聯盟」は軍部ではなく民間「革新」派の結集であったことを強調している。そして、大政翼賛会の結成時には、当初軍がもくろんでいた一国一党の前衛党の形式は民族派や現状維持派から「幕府論」だとの強い非難をうけ、「公事結社」として政府の方針を国民に伝達する機関となった。これは軍の「革新」派のもくろみの失敗であり、その意味でも「軍部支配」とはいいがたいと主張している。
でも、大政翼賛会に結集した民間人は思想的には軍部による政治支配に賛同した連中であり、民間の「革新」派が居たとしても、軍部が政権を握ったのは事実し、軍部が主流となって政治を行ったことを否定できるものではない。だから民間の「革新」派が居たから軍国主義国家ではなかったというのは間違っている。
5・15事件そして、2・26事件によって軍部と対立する政治家は軍部によって排除されるたのは事実である。そのために軍部に対抗する政治家がいなくなったのも事実である。政党政治家のいない軍部による政権は軍事政権であり、軍部の思想が直接政策となる国家は軍国主義国家である。

 犬養首相が暗殺されたのは軍部との対立していたからである。犬養首相を暗殺することによって満州における軍部の政策が実現していった。

 犬養首相は中華民国の要人と深い親交があり、とりわけ孫文とは親友だった。だから犬養首相は満州地方への進軍に反対で、「日本は中国から手を引くべきだ」との持論をかねてよりもっていた。しかし、大陸進出を急ぐ帝国陸軍の一派と、それにつらなる大陸利権を狙う新興財閥は日本が侵略し直接支配するために満州国独立の承認を政府に迫ったのである。犬養首相は軍部の要求を拒否した。
犬養首相としては、満州国の形式的領有権は中国にあることを認めつつ、実質的には満州国を日本の経済的支配下に置くという考えだった。犬養首相は中国国民党との間の独自のパイプを使って外交交渉で解決しようとした。交渉は行き詰まり、結局、犬養首相の満州構想は頓挫したが、政治家は政治交渉を優先させてできるだけ穏便に解決しようとする。しかし、軍部は武力で制圧占領することによって解決しようとする。それが政治家と軍人の違いである。
犬養首相は護憲派の重鎮で軍縮を支持しており、これも海軍の青年将校の気に入らない点だったといわれる。軍部の野望を拒否したから犬養首相は軍人に殺害されたのである。

二つの説は間違っている
明治時代から軍国主義国家だったという説も、戦前の日本は軍国主義ではなかったという説も間違っている。明治時代は政治家が政治をしていたし、政治の近代化は進み、政党政治になつたが、5・15事件で犬養首相が暗殺されてから、軍部が政権を握り軍人が政治をやるようになった。だから日本は軍国主義国家になったのである。
軍国主義国家になると大正デモクラシーと呼ばれるような民主主義の運動も弾圧されていった。

5・15事件以後に軍国主義に向かった
1932年(昭和7年)5月15日に内閣総理大臣 犬養毅を武装した海軍の青年将校たちが殺害した。

昭和天皇は鈴木貫太郎侍従長を通じて、犬養首相の後継の首相は人格の立派な者を選び、内閣は協力内閣か単独内閣かは問わない、しかしファッショに近いものは絶対に不可といった内閣をつくるように指示した。
昭和天皇が希望した内閣はファッショに近い軍部の内閣ではなく、民主主義に近い政党内閣であった。しかし、昭和天皇が指示した政党内閣はつくられないで元海軍大将であった斎藤実が次期首相になり軍部中心の内閣がつくられた。
犬養首相暗殺後の内閣は、昭和天皇が指示した内閣は実現しないで昭和天皇が望まなかった内閣がつくられたのである。戦前の国家は天皇主権と言われているが犬養首相暗殺後の日本はそうではなくなっったのである。天皇よりも軍部が望む政権がつくられたのである。

軍部の勢力が強かったのは、大日本帝国憲法第11条に 「天皇は陸海軍を統帥す」とあり、天皇主権の戦前では法的には軍部は内閣によるシビリアンコントロール下にはなく内閣とは五分五分の立場であった。しかし、明治以降ずっと政治家が軍を主導していて、天皇による統帥権が憲法には銘記されているにも関わらず政治主導されていることが問題にされることはなかった。しかし、昭和に入り、統帥権干犯問題が起こる。

統帥権干犯問題
昭和5(1930)年、ロンドン海軍軍縮条約に調印した浜口雄幸内閣に対して、軍部と野党政治家が政府を激しく攻撃した。

※ワシントン海軍軍縮条約
1921年(大正10年)11月11日から1922年(大正11年)2月6日までアメリカ合衆国のワシントンD.C.で開催されたワシントン会議のうち、海軍の軍縮問題についての討議の上で採択された条約。アメリカ(米)、イギリス(英)、日本(日)、フランス(仏)、イタリア(伊)の戦艦・航空母艦(空母)等の保有の制限が取り決められた。


軍部と野党政治家は、
「明治憲法(大日本帝国憲法)の第11条には「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」、第12条には「天皇ハ陸海軍ノ編成オヨビ常備兵額ヲ定ム」、とある。これは天皇の統帥権、編成大権であり、陸海軍の兵力を決めるのは天皇と書かれている。天皇をさしおいて、政府が兵力数を決めてきたのは憲法違反である。天皇の統帥権を犯すものだ」
と主張したのである。
これを政争の具にして議会で「統帥権干犯!」と騒ぎ出したのが野党であった政友会の犬養毅や鳩山一郎(鳩山由紀夫・邦夫兄弟の祖父)であった。

犬養毅や鳩山一郎の野党の主張に対して、浜口雄幸首相は、
「一応天皇が最終的な権限を持っているけど、実際上は責任内閣制度なのだから内閣が軍縮条約を結んでもかまわない。これが統帥権干犯ならば、外交を外務大臣がやるのは外交権干犯なのか?」
と答弁をした。鳩山一郎や政友会は浜口首相に言い負かされてしまう。
しかし、これで浜口首相は右翼や海軍から恨みを買うことになり、後日、右翼に狙撃されて重傷を負い、退陣に追い込まれた(浜口は約10ヵ月後に死亡)。

もともとは明治憲法の欠陥なのだが、それまでは元老制度によってこれが問題となることはなかった。しかし、昭和に入ると元老のほとんどは死に絶え、必然的に内閣の権威も衰えてしまった。ここに統帥権干犯問題という軍部の横暴がまかり通ってしまった原因がある。
結局、この問題により内閣は軍に干渉できないことになってしまった。
統帥権にこだわり、勢力拡大の野望に固執した軍部や右翼によって統帥権干犯論を撥ね付けた浜口首相は殺害され、満州問題で軍部と対立した犬養毅も五・一五事件で射殺された。この流れはより強固になっていき二・二六事件へと連なるのである。
統帥権干犯問題あたりを機に、日本の議会政治は徐々に死んでいき軍国主義への道に進んでいくのである。

統帥権干犯問題は、伊藤博文に始まった日本の政党政治の息の根を止めることになった。
五・一五事件で8年間続いた政党内閣は崩壊し、軍部が政権を握る軍国主義へ歩みだしたのである。

軍部の野望
政権を握った軍部の野望は日本国家を掌中に治め、日本を軍部の思い通りの国にしてから、満州の植民地支配を初めとした大陸進出であった。
軍部の野望の最終目的は日本が指導者として欧米勢力をアジアから排斥し、日本・中華民国・満州を中軸とし、フランス領インドシナ(仏印)、タイ王国、イギリス領マラヤ、英領北ボルネオ、オランダ領東インド(蘭印)、イギリス統治下のビルマ、オーストラリア、ニュージーランド、イギリス領インド帝国を含む広域の政治的・経済的な共存共栄を図る大東亜共栄圏構想であった。
軍部は大東亜共栄圏野望を実現するためにアジアに戦場をどんどん広げた。軍政府は日本経済を支える労働者である国民の多くを戦場に送った。そのために日本の生産は落ち、経済は下がり、国民は貧困にあえいだ。それでも軍政府は、
「贅沢しません勝つまでは」
と国民に言わせて、戦場を拡大していった。

帝国主義を宣言したのは明治政府を設立した政治家である。政治家が軍部と同じように大東亜共栄圏の野望を持つ可能性もある。しかし、政治家が軍部と同じ政策で大東亜共栄圏を目指すかというと、満州の植民地化政策で犬養首相と軍部が違ったように政策は違っていたはずである。
 政党政治の政権が、果たして、
「贅沢しません勝つまでは」
と国民に言わせてまで戦場を拡大していったかどうかを検討することは必要だと思う。

軍国主義とは軍部が政権を握り軍人が国の政治を動かすということである。政治家の政治と軍人の政治が同じであれば問題はない。しかし、軍人の政治と政治家の政治は違う。それが問題である。
沖縄戦になったのは日本が軍国主義だったからであり、太平洋戦争の時でも政治家による政治が続いていたら神風特攻隊はなかったし、沖縄戦にもならなかったはずである。
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沖縄戦になったのは日本が軍国主義だったから1

沖縄戦になったのは日本が軍国主義だったから1

 1945年(昭和20年)8月14日に昭和天皇や閣僚たちが御前会議において降伏を決定した。そして、8月15日に玉音放送を通じてポツダム宣言の受諾をした。日本は降伏をし、戦争は終わった。
 兵士と住民を合わせて20万人が犠牲になった沖縄はすでに米軍に占領されていた。沖縄を本拠地にして日本上陸を計画していた時に日本は降伏したのである。
 玉音放送を聞いていた国民は落胆し悲しんだ。

玉音放送は最初のところしか聞いたことがなかった。玉音放送に興味がなかったから、全文を読んだこともない。
日本の運命を変えたのが玉音放送である。最近、原文ではなく口語訳を読んだ。玉音放送に云々するつもりはない。
玉音放送の口語訳を紹介する。

玉音放送

私は、深く世界の大勢と日本国の現状とを振返り、非常の措置をもって時局を収拾しようと思い、ここに忠実かつ善良なあなたがた国民に申し伝える。
 私は、日本国政府から米、英、中、ソの四国に対して、それらの共同宣言(ポツダム宣言)を受諾することを通告するよう下命した。
 そもそも日本国民の平穏無事を図って世界繁栄の喜びを共有することは、代々天皇が伝えてきた理念であり、私が常々大切にしてきたことである。先に米英二国に対して宣戦した理由も、本来日本の自立と東アジア諸国の安定とを望み願う思いから出たものであり、他国の主権を排除して領土を侵すようなことは、もとから私の望むところではない。
 ところが交戦はもう四年を経て、我が陸海将兵の勇敢な戦いも、我が多くの公職者の奮励努力も、我が一億国民の無私の尽力も、それぞれ最善を尽くしたにもかかわらず、戦局は必ずしも好転していないし、世界の大勢もまた我国に有利をもたらしていない。それどころか、敵は新たに残虐な爆弾(原爆)を使用して、しきりに無実の人々までをも殺傷しており、惨澹たる被害がどこまで及ぶのか全く予測できないまでに至った。
 なのにまだ戦争を継続するならば、ついには我が民族の滅亡を招くだけでなく、ひいては人類の文明をも破滅しかねないであろう。このようなことでは、私は一体どうやって多くの愛すべき国民を守り、代々の天皇の御霊に謝罪したら良いというのか。これこそが、私が日本国政府に対し共同宣言を受諾(無条件降伏)するよう下命するに至った理由なのである。
 私は、日本と共に終始東アジア諸国の解放に協力してくれた同盟諸国に対しては遺憾の意を表せざるを得ない。日本国民であって前線で戦死した者、公務にて殉職した者、戦災に倒れた者、さらにはその遺族の気持ちに想いを寄せると、我が身を引き裂かれる思いである。また戦傷を負ったり、災禍を被って家財職業を失った人々の再起については、私が深く心を痛めているところである。
 考えれば、今後日本国の受けるべき苦難はきっと並大抵のことではなかろう。あなたがた国民の本心も私はよく理解している。しかしながら、私は時の巡り合せに逆らわず、堪えがたくまた忍びがたい思いを乗り越えて、未来永劫のために平和な世界を切り開こうと思うのである。
 私は、ここに国としての形を維持し得れば、善良なあなたがた国民の真心を拠所として、常にあなたがた国民と共に過ごすことができる。もしだれかが感情の高ぶりからむやみやたらに事件を起したり、あるいは仲間を陥れたりして互いに時勢の成り行きを混乱させ、そのために進むべき正しい道を誤って世界の国々から信頼を失うようなことは、私が最も強く警戒するところである。
 ぜひとも国を挙げて一家の子孫にまで語り伝え、誇るべき自国の不滅を確信し、責任は重くかつ復興への道のりは遠いことを覚悟し、総力を将来の建設に傾け、正しい道を常に忘れずその心を堅持し、誓って国のあるべき姿の真髄を発揚し、世界の流れに遅れを取らぬよう決意しなければならない。
 あなたがた国民は、これら私の意をよく理解して行動せよ。


 玉音放送を聞いた日本国民は、失望し、深く悲しんだ。皇居に向かってひざまずき深く頭を垂れた。

戦後の沖縄に生まれた私の周囲にはアメリカ兵が多く居た。彼らは私服であったから普通のアメリカ人であった。周囲に住んでいるのはみんな沖縄女性と同棲しているアメリカ人であった。アメリカ人には親しみを感じたし、彼らは周囲の沖縄人より自由で明るかった。
学校では戦前は軍国主義国家であったが戦後は民主主義国家になったと言う教育を受けていたし、リンカーン大統領の「人民の人民による人民のための政治」の言葉に深く感銘していたから、玉音放送にうなだれる写真に正直に言えば違和感があった。
自分の幸福を犠牲にしても天皇のために尽くすというのが天皇崇拝である。自分や国民の幸福のほうが天皇のために尽くすよりも大事であると思っていた私は天皇崇拝を受け入れることはできなかったし、写真のような人間にはなりたくなかった。

神風特攻隊にも反対だった。ベストセラー作家の百田尚樹氏が名護市の数久田体育館で公演したが、百田氏は沖縄戦が始まった時から神風特攻隊が沖縄の米軍に死を賭けて特攻していったことや戦艦大和が沖縄の米軍と戦うために向かったことを述べ、日本は決して沖縄を見捨てたのではなく、沖縄のために多くの日本兵が戦い、死んでいったことを強調していた。
百田氏の主張は「日本軍は沖縄住民を守らなかった」という左翼の主張に対する反論である。沖縄の地上戦でも日本軍は壮絶に戦い、全滅した。日本軍は住民を守らなかったのではなく全滅したために守ることができなかったのだ。
百田氏の指摘はその通りであるが、神風特攻隊を出撃すれば戦況を逆転し、沖縄を米軍の進攻から止めることができたかといえば、そうではなかつたことがはっきりしている。神風特攻隊は戦況を逆転させることはできなかったし、沖縄を守ることもできなかった。それは最初から分かっていた。
神風特攻隊とは神風に頼った出撃であり、神風が吹かなければ戦況を逆転することはできないと信じるくらいに米軍と日本軍の軍事力の戦力は大差があった。
日本軍のトップなら沖縄が米軍に占領されることは知っていたはずである。知りながら沖縄戦をやり、住民、日本兵の犠牲を20万人も出したのである。
日本軍は沖縄戦の次は本土決戦もやろうとしていた。本土決戦をすれば本土も沖縄戦のように兵士も住民も米軍に殲滅され、犠牲者が何百万何千万人も出ていただろう。それを知っていながら日本軍は本土決戦をやろうとしていたのである。

昭和天皇の玉音放送で戦争は終わった。本土決戦はなくなり、これ以上の日本国民の犠牲は出さなくて済んだ。
玉音放送で本土決戦は阻止されたが、私の疑問は沖縄戦が始まる前のフィリピンが陥落した時に日本が降伏すれば沖縄の犠牲は免れたはずであるが、なぜ日本はフィリピンが陥落した時に降伏をしないで沖縄戦をやったかということである。敗戦が確実であるならできるだけ早く降伏をして、犠牲を押さえるべきである。しかし、日本は降伏しなかった。そのために沖縄戦にになり20万人の兵士と住民が犠牲になった。

日清戦争や日露戦争の清国やロシアは徹底抗戦をしないで、本国が攻撃される前に降伏して、賠償金を払い、土地を日本に提供している。過去の戦争では敗戦が濃厚になると降伏をし、自国の被害を少なくする努力をしている。日本もフィリピンが陥落した時に降伏するべきであった。しかし、日本は敗戦が濃厚であるのに降伏をしないで戦争を続け沖縄戦の悲劇を生んだ。なぜ日本は沖縄戦が始まる前に降伏をしなかったのか。

なぜ、太平洋戦争が起こったのか、なぜ、日本は太平洋戦争に負けたのかの原因を説明する論文は非常に多いが、なぜ、沖縄戦になる前に日本は降伏しなかったのかを説明する論文はない。私には不思議である。

私は中学、高校生の頃は映画が好きで、よく映画を見た。戦争映画も多く見た。神風特攻隊が敵艦に突撃する時に、「天皇陛下バンザーイ」と叫んでいる映画を見たし、二二六事件の映画も見た。戦争を美化する映画もあったし批判する映画もあった。字幕がスムーズに読めるようになると米国やフランスなどの戦争映画も多く見た。外国の戦争映画には神風特攻隊や日本軍の玉砕を美化するような映画はなかった。美化するのは日本映画だけだった。外国の映画を見ていくと日本軍が降伏を拒否して玉砕したのは本当に正しい選択だったのか疑問を持つようになった。

日本軍の玉砕
1943年(昭和18年)
5月12日 米軍、アッツ島上陸(5月25日、日本軍全滅し「玉砕」の語の使用始まる)
1944年。
11月21日 米軍、マキン島・タラワ島上陸(11月23日 日本軍玉砕)。
2月6日 クェゼリン島の日本軍玉砕。
6月15日 米軍、サイパン上陸(サイパンの戦い。7月7日日本軍玉砕、在住 日本人1万人死亡)
8月2日 テニアン島の日本軍玉砕。(テニアンの戦い)
8月11日 グアム島の日本軍玉砕。(グアムの戦い)
1945年(昭和20年)
3月26日 硫黄島日本軍玉砕    

なぜ日本軍は降伏をしないで玉砕をしたのか。日清、日露戦争の時は玉砕の思想はなかったから玉砕はしていない。しかし、太平洋戦争では降伏はしないで玉砕をしている。日本軍が玉砕をした原因を調べてみると、日清、日露戦争の時の捕虜問題と武士道が関係していた。

日清戦争中に第一軍司令官であった山縣有朋が清国軍の捕虜の扱いの残虐さを問題にし、
「敵国側の俘虜の扱いは極めて残忍の性を有す。決して敵の生擒する所となる可からず。寧ろ潔く一死を遂げ、以て日本男児の気象を示し、日本男児の名誉を全うせよ」と「捕虜となるくらいなら死ぬべきだ」という趣旨の訓令を出した。

1905年(明治38年)には井上哲次郎が『武士道叢書』を発表した。『武士道叢書』は戦国時代の戦陣訓や葉隠の「武士道とは死ぬことと見つけたり」等を収めたうえで、日清日露戦争で勝利したのは日本古来の武士道によるとし、天皇への唯一無二の忠誠を唱え、忠義や滅私奉公、国家のためには死をも厭わぬものとして武士道を解釈した。これはのちに昭和17年に『武士道全書』へと継承され、太平洋戦争における「皇道的武士道」へ影響を与えた。
戦時国際法としての傷病者及び捕虜の待遇改善のための国際条約であるジュネーヴ条約に日本も加盟していたが、捕虜の待遇に関する条約(全97条)に日本は加入をしなかった。理由として、「日本軍は決して降伏などしないのでこの条約は片務的なものとなる」と述べた。
降伏をしないということは玉砕するということである。
太平洋戦争における日本兵の降伏拒否や自決は、東条英機の戦陣訓示の「生きて虜囚の辱を受けず」によるものと言われているが、玉砕の思想は『戦陣訓』以前からあったのである。
日本軍が玉砕したのは、日清、日露戦争の捕虜が残虐な扱いを受けたことに対する反発と武士道の教えが影響していた。しかし、武士道は兵士を武士とした日本軍内の問題である。民間人は武士ではないから武士道とは関係がない。しかし、沖縄戦では兵士ではない10万人近くの民間人が犠牲になった。沖縄戦が始まる前に、
3月10日 東京大空襲
3月12日 名古屋大空襲
3月14日 大阪大空襲
3月16日 神戸空襲
3月25日 名古屋大空襲
があり、何十万と言う民間人が犠牲になった。東京大空襲では一夜にして10万人の市民が犠牲になった。国民の犠牲を止めるには降伏するしかない。しかし、日本は降伏しなかった。
 形勢を逆転する可能性はなく、国民の犠牲が増えていったのに日本は降伏しなかったのである。それは日本が軍国主義国家であったからである。軍国主義国家ではなく、民主主義国家であれば国民を犠牲にするのを止めるために降伏していたはずである。沖縄戦もなかったはずである。

 玉砕思想を持っていた軍部は本土決戦をやる積もりでいた。軍部は日本国民全体で米軍を迎え撃ち、最後の一人まで戦う覚悟でいた。政権は軍部が握っていたし、国民も本土決戦を覚悟し、米軍と戦う積りでいたから、本土決戦になるのは確実であった。しかし、本土決戦にはならなかった。
本土決戦を止めたのが昭和天皇の玉音放送である。

日本は戦前の憲法が大日本帝国憲法というように帝国主義国家であった。しかし、四民平等・法治主義を掲げていたから民主化への道も辿っていた。
大正デモクラシーが民主化の象徴である。
政治と軍事は分業化され、政治は政治家が行い。国の法律、予算を決めていた。次第に民主化に進んでいたのに民主化への道が軍によって一気に閉ざされた。その始まりが5・15事件の犬養毅首相暗殺である。
5・15事件をきっかけに日本は軍国主義へまい進していく。日本が軍国主義国家であったから沖縄戦が起こり、10万人近くの住民が犠牲になったのである。
なぜ、軍国主義国家だったから沖縄戦になったかは次に説明する。

     つづく
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クワッドの存在で中国が沖縄攻撃できないことを知るべきである

クワッドの存在で中国が沖縄攻撃できないことを知るべきである

沖縄タイムスは、沖縄県内41市町村長を対象にアンケートを実施した。
〇台湾有事の危険性が高まっていると思う約95%の37人
〇衝突回避に向けた日本政府の外交努力は十分ではない 約80%の30人。
〇安保関連⒊文書の決定や、防衛費増額に伴う増税への政府の説明は十分ではない。9割を超える39人

タイムスの記事

台湾海峡を巡り、軍備拡大を続ける中国と米国との武
力衝突への懸念が県内市町村長の中で高まっていることが明らかになった。一方、政治的な立場を超えて政府の外交努力に課題があるとの認識も示された。

■「避難民の受け入れ態勢協議を」

  台湾に近接し、ミサイル部隊の配備方針が示された与那国町の糸数健一町長は「危険性は高まっている」としつつ、「防衛力強化はさることながら、もっと外交力強化を図るべきだ」と訴えた。

  中山義隆石垣市長は国と県に「台湾有事を想定した住民避難や台湾からの避難民の受け入れ態勢などを協議する場を早急に設けてほしい」と要望。渡久地政志北谷町長は「外務省の外交努力で(平和を)維持できており、引き続き平和的な外交努力を望む」とした。
               沖縄タイムス
 中国が日本を攻撃させない手はすでに打っている。それは中国が日本を攻撃すれば米国、オーストラリア、印度、イギリスが日本の側になり中国と戦う態勢である。

 日米豪印の4ヵ国は自由で開かれたインド太平洋の実現に向け、ワクチン、インフラ、気候変動、重要・新興技術などの幅広い分野にて協力体制を構築している。協力体制をクワッドという。4カ国はクワッドの安全を維持するために軍事訓練をしている。
軍事訓練は「マラバール」と呼ばれている。この訓練は、アメリカ海軍とインド海軍が30年前から行っていて、海上自衛隊は2007年から、オーストラリアはおととしから参加しています。ことしは日本周辺の太平洋で8日から今月15日までの日程で行われ、横須賀市では4か国の司令官らが出席して開始式が開かれた。
海上自衛隊自衛艦隊の湯浅秀樹司令官は「私たちは、国際社会のルールを重視するとともに、力を背景とした一方的な現状変更の試みには一致団結して反対するどうしだ。世界情勢が大きく変動するなか、4か国の緊密な連携と結束を世界に示すことは、極めて大きな意義がある」と述べた。
アメリカ海軍第7艦隊のカール・トーマス司令官が「マラバールはルールを書き換えようとする国々に対して、私たちが黙って見ているわけではないことを示すものだ」と述べるなど、各国の司令官も連携を強化していく考えを示した。
今回の訓練ではアメリカ軍の原子力空母など合わせて14隻の艦艇が参加して潜水艦に対処する手順などを確認した。

日本に中国が攻撃すればクワッドに参加している米国、豪州、インドが日本を支援するのは確実である。中国は4カ国と闘わなくてはならない。
クワッドを最初に提唱したのは故安倍首相である。16年前である。首相になるとクワットを実現させた。


ウクライナ戦争で見られたように民主主義国家は連帯
する。ウクライナは戦争が起きてから連帯してウクライナ支援をした。アジアでは日米印豪に英が連帯してすでに中国と対峙している。

台湾有事が沖縄有事になると信じているのはクワッドを知らないからである。日米は中国対策はすでにやっている。中国が日本をミサイル攻撃することはない。それに民主主義国家の日本や米国が先に中国を攻撃することもない。日米VS中国戦争は起きない。

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馬毛島基地建設容認が多数を明らかにした八板市長リコール運動

馬毛島基地建設容認が多数を明らかにした八板市長リコール運動

鹿児島県西之表市八板俊輔市長の解職請求(リコール)署名は688人分であった。リコールが成立するには西之表市の人口の3分の1である4109人の有効署名が必要である。必要署名の16、7%しかなかった。
 西之表市には無人島馬毛島がある。政府は馬毛島への自衛隊基地建設と米軍機訓練移転計画があり、八板市長は馬毛島の基地建設を容認した。容認に反対の市民が八板市長のリコール署名運動をやったのである。その結果、リコールは成立しなかった。
 今までのマスメディアの報道ではリコールの成立は確実であるような印象であった。
 「馬毛島への米軍施設に反対する市民・団体連絡会」は抗議集会を繰り返し、反対運動は市民にひろがっている印象を与えていた。市民・団体連絡会の集会には日本共産党の田村貴昭衆院議員が参加し、連帯あいさつをした。立憲民主党や社民党の国会議員らも参加した
 共産党の田村議員は、米国は馬毛島を含めた南西諸島にミサイル部隊を分散させ、中国に対抗する戦略であると指摘して、
「戦争が起これば標的になるのは馬毛島を含めた南西諸島だ。島の未来がかかっており、私も頑張り抜きたい。全国で運動と世論を広げていこう」
と演説した。
「辺野古に新基地を建設すれば、有事になるとミサイル攻撃される」と志位委員長が辺野古で指摘したことと同じことを田村議員は西之表市で述べたのである。
 共産党は有事になれば全国の米軍基地、自衛隊基地がミサイル攻撃されるということを主張し続けている。
沖縄では沖縄の基地だけがミサイル攻撃され戦場になると主張しているが、実は全国の基地が攻撃されると主張しているのである。リコール署名はリコールできる⒊分の1にほど遠いわずか688人分であった。多くの市民が基地建設を容認しているということだ。共産党のデマは通用しない。

 馬毛島基地反対派のリコール運動とキャンプ・シュワブの辺野古移設反対運動がダブって見える。二つとも共産党、社民党に立憲民党の左翼系の野党政党が中心とする運動である。そして、賛同者が少ない。
 基地建設を西之表市、宜野湾市、名護市の3市長は容認している。基地建設容認の市民が増加しているのだ。基地があればミサイル攻撃されるというデマに騙されない市民が増えているということだ。
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タイムス社説よ ウクライナの国民が武器をすて、平和への祈りをすれば平和になれるというのか

タイムス社説よ ウクライナの国民が武器をすて、平和への祈りをすれば平和になれるというのか

沖縄タイムスの新年社説である。

今、必要なのは憲法制定時の志を生かしていく具体的な取り組みだ。
 敵味方の別なく沖縄戦で亡くなった人たちの名を刻む「平和の礎」。そこには二度と戦争を起こしてはならないという沖縄の人々の祈念が刻み込まれている。
 昨年6月、市民グループが礎に刻まれた戦没者全員の名前を読み上げる取り組みを行った。そうやって一人一人のかけがえのない命、戦場で失われてしまった命に触れているのである。
 そのようなことの積み重ねを通して、沖縄に「平和の文化」を根付かせたい。
 私たちは今年を「非戦・平和創造元年」と位置付け、紙面を通して戦争を回避するための機運づくりを進めていきたい。
          タイムス社説
 ウクライナは戦争中である。戦争はロシア軍がウクライナに侵攻したからだ。タイムスはウクライナ国民が武器を持たず「二度と戦争を起こしてはならない」平和の祈りをしていたらロシアは侵攻しないでウクライナ戦争は起こらなかったというのか。
 武器を捨て平和の祈りをしていたらロシアは侵攻しなかったというのはあり得ないことである。ウクライナが武器を捨てていたら数日でウクライナ全土がロシアに支配されていただろう。ウクライナ戦争が教えたのは軍事力が弱ければ侵攻されることである。ウクライナは武器があり、国民も立ち上がりロシア軍と戦っている。タイムス社説の主張するような「二度と戦争を起こしてはならない」と祈るだけでは平和を勝ち取ることはできない。それを教えたのがウクライナ戦争なのだ。
 沖縄は戦後75年間戦争がなかった。戦争がなく平和だったから敵味方の別なく沖縄戦で亡くなった人たちの名を刻む「平和の礎」を建設することができたのである。
 ベトナム戦争などアジアで多くの戦争があった。しかし、沖縄が戦争に巻き込まれたことは一度もなかった。それは米軍基地があったからである。軍事力が強ければ侵攻されない。ウクライナと沖縄の違いである。
 タイムス社説よ!
 反戦平和の祈りをしたから沖縄が平和ではない。沖縄が平和だから平和の祈りをすることができるのだ。
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