彼女は慰安婦ではない 違法少女売春婦だ 少女慰安婦像は韓国の恥である3 娼妓取締規則



新発売


新発売・沖縄内なる民主主義13 A5版  定価1380円(税込み)
新発売・台風十八号とミサイル 定価1450円(税込み)


本土取次店 (株)地方・小出版流通センター
http://neil.chips.jp/chihosho/ TEL.03-3260-0355 
chihosho@mxj.mesh.ne.jp
県内取次店 株式会社 沖縄教販
電話番号098-868-4170
shopping@o-kyohan.co.jp

本土取次店 (株)地方・小出版流通センター
http://neil.chips.jp/chihosho/ TEL.03-3260-0355 
chihosho@mxj.mesh.ne.jp
県内取次店 株式会社 沖縄教販
電話番号098-868-4170
shopping@o-kyohan.co.jp

にほんブログ村 政治ブログへ
にほんブログ村
クリックお願いします

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
彼女は慰安婦ではない 違法少女売春婦だ 少女慰安婦像は韓国の恥である3娼妓取締規則

■ 娼妓取締規則(明治三十三年十月内務省令四十四号)
第一条 十八歳未満の者は娼妓になってはいけない。
第二条 娼妓名簿に登録されていない者は娼妓稼をしてはいけない。
娼妓名簿は娼妓所在地所轄警察官署に備えるものとする。
娼妓名簿に登録していない者は警察官署が取り締まる。
第三条 娼妓名簿に登録する時は本人が自ら警察官署に出頭し、左の事項を書いた書面を申請しなければならない。
一 娼妓になる理由
二 生年月日
三 親のいない時は戸主の承諾を得る。もし、承諾を与える者がいない時は其事実を書く。
四 未成年者の場合は戸主と実父、実父がいない時は実母、実父母がいない時は実祖父、実父母実祖父がいない時は実祖母の承諾を得なければならない。
五 娼妓稼をする場所を明記する。
六 娼妓名簿登録後に於ける住居を明記する。
七 現在の生業を報告する。ただし、他人に頼って生計を営む者はその事実を報告する。
八 現在娼妓であるかの有無を報告する。または嘗て娼妓であった者は其稼業の開始廃止の年月日、場所、娼妓だった時の住居を報告し、稼業廃止の理由を報告する。
九 前各号の外庁府県令にて定めた事項を報告する。
前項の申請には戸籍吏の作った戸籍謄本前項第三号第四号承諾書及び市区町村長の作った承諾者印鑑証明書を添付しなければならない。
娼妓名簿登録申請者は登録前に庁府県令の規定に従い健康診断を受けなければならない。
第四条 娼妓稼を禁止された者は娼妓名簿から削除するものとする。
第五条 娼妓名簿削除の申請は書面又は口頭でする。
第六条 娼妓名簿削除申請に関しては何人といえども妨害をしてはならない。
第七条 娼妓は庁府県令を以て指定した地域外に住居することは許されない。
娼妓は外出する場合は警察官署の許可を受けなければならない。
第八条 娼妓稼は官庁の許可した貸座敷以外では仕事をしてはいけない。
第九条 娼妓は庁府県令の規定に従い健康診断を受けなければならない。
第十条 警察官署の指定した医師又は病院で病気だと判断された者や伝染性疾患にかかった者は治癒したと医者が診断しない限り稼業に就くことをしてはならない。
第十一条 警察官署は娼妓名簿の登録を拒んではならない。
庁府県長官は娼妓稼業を停止し又は禁止することをしてはならない。
第十二条 何人であっても娼妓の通信、面接、文書の閲読、物件の所持、購買其の外の自由を妨害してはならない。
第十三条 左の事項に該当する者は二十五円以下の罰金又は二十五日以下の重禁固に処す。
一 虚偽の事項を書いて娼妓名簿登録を申請した者。
二 第六条第七条第九条第十二条に違反した者。
三 第八条に違反したもの。及び官庁の許可した貸座敷以外で娼妓稼をさせた者。
四 第十条に違背した者。及び第十条によって稼業に就いてはいけない者を強引に稼業に就かした者。
五 第十一条の停止命令に違背した者。及び稼業停止中の娼妓を強引に稼業に就かした者。
六 本人の意に反して強引に娼妓名簿の登録申請又は登録削除申請をさせた者。
第十四条 本令の外必要な事項は庁府県令で之を定める。
第十五条 本令施行の際現に娼妓である者は申請を持たして娼妓名簿に登録するものとする。

 日本は明治になって近代国家を目指した。近代国家の基本中の基本が法治主義である。明治政府は政党政治によって近代国家の基礎となるべき法律を精力的につくっていった。明治、大正、昭和と日本は法治主義を発展させていった。日本が法治主義であったことを念頭において慰安婦問題を考えるべきである。
日本政府は明治三十三年に娼妓取締規則を制定した。韓国の元慰安婦問題に取り組んでいる人たちは日本が法治国家であったこと、娼妓取締規則があったことを軽視しているように思える。軽視するべきではない。むしろ、重視するべきである。
戦前は娼妓取締規則を遵守した売春のみが政府が認めた売春であった。売春婦には公娼と私娼がいた。政府が公認した売春婦が公娼であり、私娼は政府が認めない違法な売春婦であった。警察は私娼を取り締まった。

歴史的に見ると、自然発生的に発生した売春を野放しにしていると多くの深刻な問題が起こるのでそれを防ぐために国家が法律をつくり売春を統制していったことが分かる。
売春禁止法がある現在から過去に対して女性の人権無視だと売春を認めた公娼制度を非難することはできるが、歴史的にみると単純に非難することはできない。
大坂夏の陣図屏風に描かれている町民の悲惨な犠牲、戦国時代の奴隷売買、秀吉時代の遊郭の許可、江戸時代の五箇条の掟書による取り締まり強化、そして、明治政府による公娼制度。私たちはこのような国による売春への対処の歴史を正確に知るべきである。知った上で戦時中の慰安婦を問題にするべきだ。

戦前の日本には十五条からなる公娼制度があった。この法律は売春行為を野放しにしないための法律だった。公娼制度を制定することによって私娼を禁止し取り締まることができた。
公娼は登録制であった。公娼は十八歳以上であること。親の許しを得ること。政府が指定する場所でのみ(吉原など)商売をすること。定期的に性病検査を受けること等々の法律をつくり、明治政府は売春を規制したのである。

日本軍が大陸に進出すると、売春業者も日本軍を追って大陸に渡った。日本軍相手の芸能団を慰問団と呼び、公娼たちを慰安婦と呼んだ。
日本政府は兵士に梅毒などの性病が広がることを恐れ、大陸でも公娼制度を適用した。公娼制度を適用するということは、売春ができる場所は吉原のように日本政府が許可する場所だけになる。それが慰安所だった。大陸では日本軍が日本政府の代理を務めることになる。だから、周囲の環境を考慮した上で日本軍は慰安所を指定したのである。
日本軍が慰安所をつくったのではなく、日本軍は政府の代理として慰安所が設置できる場所を指定したのである。慰安所を設置できる建設業者が居ない場所では日本軍が設置したことがあっただろう。
公娼制度では定期的に性病検査を受けなければならない。民間の医師がいない戦場では軍医が性病検査をしたのである。もし、公娼制度がなく慰安所がなかったら、売春宿が至る所に存在し、性病が蔓延しただろう。

公娼制度を適用している慰安所には十八歳以上でなければ慰安婦として入ることはできなかった。十一歳、十四歳の慰安婦を日本軍が許すはずがない。もし居たとすれば。日本軍の監視を逃れて法律違反行為をしていたことになると推理することはできるが、現実として少女が日本軍が管理している慰安所に入ることは不可能であった。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

彼女は慰安婦ではない 違法少女売春婦だ 少女慰安婦像は韓国の恥である2日本の公娼制度の歴史



新発売


新発売・沖縄内なる民主主義13 A5版  定価1380円(税込み)
新発売・台風十八号とミサイル 定価1450円(税込み)


本土取次店 (株)地方・小出版流通センター
http://neil.chips.jp/chihosho/ TEL.03-3260-0355 
chihosho@mxj.mesh.ne.jp
県内取次店 株式会社 沖縄教販
電話番号098-868-4170
shopping@o-kyohan.co.jp

本土取次店 (株)地方・小出版流通センター
http://neil.chips.jp/chihosho/ TEL.03-3260-0355 
chihosho@mxj.mesh.ne.jp
県内取次店 株式会社 沖縄教販
電話番号098-868-4170
shopping@o-kyohan.co.jp

にほんブログ村 政治ブログへ
にほんブログ村
クリックお願いします

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
彼女は慰安婦ではない 違法少女売春婦だ
少女慰安婦像は韓国の恥である2日本の公娼制度の歴史


日本の公娼制度の歴史
日本における公娼制度の歴史は、一一九三年(建久四年)に、遊女屋および遊女を取り締まるために、源頼朝が里見義成に遊女別当を命じたことが、関連する史実の文献初出であるらしい。
室町時代足利氏は、一五二八年(大永八年)に傾城局をもうけ、竹内新次郎を公事に任じ鑑札を与えて税金を取った。 売春業を公に認めたのである。
戦国時代には、続く戦乱によって奴隷売買も盛んになり、遊女も増えた。
天文・永禄のころには駿河の富士の麓に富士市と称する所謂奴隷市場があって、妙齢の子女を連れてきて、売買し、四方に輸出して遊女とする習俗があったという。

封建時代は遊女は奴隷であった。その奴隷制度は江戸時代まで続く。武将は遊女屋を増やすことによって一般女性の性被害を押さえる政治をやったのである。その時代は売春を禁止すれば性被害が増えるのは確実であった。性被害を減らすには遊女屋を許可するのが最良の方法だったのである。売春を禁止し、強姦の取り締まりを厳しくすればいいと考えることもできるが、戦乱の世ではそんな余裕はあるはずもなかった。

秀吉は「人心鎮撫の策」として、遊女屋の営業を積極的に認め、京都に遊郭を造った。一五八五年に大阪三郷遊郭を許可。八九年京都柳町遊里(新屋敷)=指定区域を遊里とした最初である。秀吉も遊びに行ったという。
オールコックの『大君の都』によれば、「秀吉は・・・・部下が故郷の妻のところに帰りたがっているのを知って、問題の制度(遊郭)をはじめたのである」 やがて「その制度は各地風に望んで蔓延して伊勢の古市、奈良の木辻、播州の室、越後の寺泊、瀬波、出雲碕、その他、博多には「女膜閣」という唐韓人の遊女屋が出来、江島、下関、厳島、浜松、岡崎、その他全国に三百有余ヶ所の遊里が天下御免で大発展し、信濃国善光寺様の門前ですら道行く人の袖を引いていた」 のだという。

江戸時代の公娼制度・遊郭
江戸時代に入ると、麹町道三町、麹町八丁目、神田鎌倉海岸、京橋柳橋に遊女屋がいとなまれた。
家康は『吾妻鏡』に関心を示し、秀吉の遊郭政策に見習い、徳川安泰を謀り、柳町遊女屋庄司甚右衛門に吉原遊郭設置許可を与えた。庄司甚右衛門は「(大遊郭をつくって)大阪残党の吟味と逮捕」を具申したのである。甚右衛門はこう述べた。
1、大阪残党の詮議と発見には京の島原のような規模が適切である。
2、江戸に集まる人々の性犯罪の防止のため。
3、参勤交代の武家の性処理。
4、江戸の繁栄に役立つ。

幕府は三都の遊郭(吉原、京の島原、大阪新地)を庇護して税金を免除し、広大な廊内に自治権を与え、業者を身内扱いしたのであった。 将軍代替わりの祝儀、料理人の派遣、摘発した私娼の引渡しがなされ、江戸では一六六六年に私娼大検挙がなされ、湯女五一二人が吉原に引き渡され吉原の繁栄をもたらした。

明治以降の日本の「公娼制度」にも政府と遊郭との結びつきが見られるのは、江戸時代に幕府と遊郭業者が結びついたこの伝統下にあると言える。 江戸幕府は、散在する遊女屋を特定地域に集合させるために、一六一七年(元和三年)、日本橋葺屋町界隈に遊郭の設置を許可し、ここを「吉原」と命名した。一六五七年(明暦三年)に、浅草日本堤下に移転(新吉原)を命じた。この時、五箇条の掟書を出して、その取締規則によって営業させた。

こうして江戸に遊郭が設置され、ついで京都、伏見、兵庫、大津などにも公認の遊郭が設置された。その一方で、市中にひそむ私娼を取締まり、これを禁じた。このため、城下町や駅路でいとなまれる遊女屋は、「はたごや」という名目をとり、そこの遊女を「こども」、「めしもりおんな」などといった。
二百数十年間に渡って日本各地に遊郭が栄え、江戸文化の一つとなったが、やがて、性病が蔓延し、幕末には約三割が梅毒感染者であったとも言う。家康自身が70を過ぎて淋病にかかったという。

明治になって遊女は奴隷制度から解放される
明治時代になって、遊郭はさらなる発展を遂げるようになった。横浜では外人目当ての遊郭が生まれ、政府は会津征伐の軍資金五万両を業者に出させ、代わりに築地鉄砲洲遊郭の設置を許可したりもした。
明治維新ののち、一八七三年(明治六年)十二月、公娼取締規則が施行された。警保寮から貸座敷渡世規則と娼妓渡世規則が発令された。のちに公娼取締規則は地方長官にその権限がうつり、各地方の特状により取締規則が制定された。
たとえば東京では、一八八二年(明治一五年)四月、警察令で娼妓渡世をしようとする者は父母および最近親族(が居ない場合は確かな証人二人)から出願しなければ許可しないとした。  
やがて群馬県では県議会決議によって、全国で初めて公娼そのものを全面的に禁止する条例が可決された。
              
遊郭を奴隷制度だと非難し、改革させるきっかけになったのがマリア・ルス号事件であった。マリア・ルス号事件をきっかけに明治政府は遊女を奴隷制度から解放するのである。

マリア・ルス号事件
一八七二年(明治五年)七月九日、中国の澳門からペルーに向かっていたペルー船籍のマリア・ルス号が横浜港に修理の為に入港してきた。同船には清国人(中国人)苦力(クーリー)二三一名が乗船していたが、数日後過酷な待遇から逃れる為に一人の清国人が海へ逃亡しイギリス軍艦(アイアンデューク号)が救助した。そのためイギリスはマリア・ルス号を「奴隷運搬船」と判断しイギリス在日公使は日本政府に対し清国人救助を要請した。
知っている通り明治政府は四民平等を宣言した。四民平等は奴隷制度を否定している。そのため当時の副島種臣外務卿(外務大臣)は大江卓神奈川県権令(県副知事)に清国人救助を命じた。しかし、日本とペルーの間では当時二国間条約が締結されていなかった。このため政府内には国際紛争をペルーとの間で引き起こすと国際関係上不利であるとの意見もあったが、副島は「人道主義」と「日本の主権独立」を主張し、マリア・ルス号に乗船している清国人救出のため法手続きを決定した。

マリア・ルス号は横浜港からの出航停止を命じられ、七月十九日(八月二十二日)に清国人全員を下船させた。マリア・ルス号の船長は訴追され、神奈川県庁に設置された大江卓を裁判長とする特設裁判所は七月二十七日(八月三十日)の判決で清国人の解放を条件にマリア・ルス号の出航許可を与えた。だが船長は判決を不服としたうえ清国人の「移民契約」履行請求の訴えを起こし清国人をマリア・ルス号に戻すように訴えた。
この訴えに対し二度目の裁判では移民契約の内容は奴隷契約であり、人道に反するものであるから無効であるとして却下した。また、この裁判の審議で船長側弁護人(イギリス人)が、
「日本が奴隷契約が無効であるというなら、日本においてもっとも酷い奴隷契約が有効に認められて、悲惨な生活をなしつつあるではないか。それは遊女の約定である」
として遊女の年季証文の写しと横浜病院医治報告書を提出した。
 その頃の遊女は親の借金のかた=抵当として遊女にさせられ、利子代わりつまり無報酬で働かされていた。親が借金を返すまでは遊郭から出ることはできなかった。貧しい親に借金を返済することはできるはずもなく、遊女は一生解放されなかった。それは奴隷同然であり、船長側弁護人の政府批判に明治政府は反論できなかった。痛いところを突かれた明治政府は公娼制度を廃止せざるを得なくなり、同年十月に芸娼妓解放令が出され、娼婦は自由であるということになった。
 この驚くべき事実をほとんどの人が知らないようである。

裁判により、清国人は解放され清国へ九月十三日(十月十五日)に帰国した。清国政府は日本の友情的行動への謝意を表明した。

明治政府は士農工商の身分制度を廃止して四民平等の社会にした。それは奴隷制度の否定でもある。だから、奴隷である清国人(中国人)苦力二三一名を解放したのだ。しかし、奴隷制度を否定している日本が遊女を奴隷にしていると指摘された。そのために明治政府は公娼制度を廃止し、同年十月に遊郭の娼婦たちを自由にする芸娼妓解放令を出さざるを得なくなった。明治政府は一時的ではあるが遊女を完全に自由にしたのである。

明治政府は四民平等政策を推し進め、立法・行政・司法の三権分立を確立していった。しかし、売春禁止はやらなかった。四民平等といっても日本はまだまだ男尊女卑の社会だった。それに遊郭からの税収は莫大であったから政府としては簡単に遊郭をやめるわけにはいかなかった。芸娼妓解放令を出した明治政府であったが遊郭を存続させたいのが本音だったのである。また、遊女を自由にしてしまうと世の中が乱れてしまう。四民平等=奴隷否定と遊郭の問題で明治政府は苦心する。
明治五年に遊郭の遊女は奴隷であると指摘されて芸娼妓解放令を出してから二十八年間試行錯誤を積み重ねて政府は明治三十三年に「娼妓取締規則」を制定するのである。


一八八九年(明治二十二年)、内務大臣から、訓令で、これより娼妓渡世は十六歳未満の者には許可しないと布告された。

一八九一年(明治二十四年)十二月までは士族の女子は娼妓稼業ができなかったが、内務大臣訓令によりこれを許可するとした。

一九〇〇年(明治三十三年)五月、内務大臣訓令により、十八歳未満の者には娼妓稼業を許可しないと改正された。

一九〇〇年(明治三十三年)十月、内務省令第四十四号をもって、娼妓取締規則が施行された。これによって、各府県を通じて制度が統一された。

昭和四年には、全国五一一箇所の遊廓において貸座敷を営業する者は一万一一五四人、娼妓は五万五十六人、遊客の総数は一箇年に二二七八万四七九〇人、その揚代は七二二三万五四〇〇円であった。

マリア・ルス号事件を体験した明治政府が「娼妓取締規則」を作るにあたって、最も注意を払ったのは公娼は本人の自由意志で決める職業であり奴隷ではないということであった。そのことを示しているのが娼妓取締規則の条文にある。

第三条に、娼妓名簿に登録する時は本人が自ら警察官署に出頭し、左の事項を書いた書面を申請しなければならないと書いてある。娼妓になるのは強制ではなく本人の意思であることを警察に表明しなければならなかったのである。

第十二条に、何人であっても娼妓の通信、面接、文書の閲読、物件の所持、購買其の外の自由を妨害してはならないと書いてある。娼妓の自由を保障している。

第十三条の六項では、本人の意に反して強引に娼妓名簿の登録申請又は登録削除申請をさせた者を罰すると書いてある。
娼妓の住まいを限定する一方で行動の自由を保障しているから娼妓は奴隷ではないと明治政府は主張したのである。娼妓が奴隷ではないということは四民平等を宣言した明治政府にとって近代国家として世界に認められるかどうかの深刻な問題であった。

多くの評論家が、明治政府が売春婦を性奴隷にさせないために「娼妓取締規則」を制定したという肝心な事実を軽視している。

韓国の自称元慰安婦たちが日本軍に性奴隷にされたと日本政府を訴えているが、戦前の日本政府と日本軍は「娼妓取締規則」を遵守し性奴隷をなくすために努力していた。法治国家であった日本にとってそれは当然のことである。
日本軍が強制連行をやり性奴隷にしたという自称元慰安婦たちの主張は明治政府の四民平等と法の精神を踏みにじるものである。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

彼女は慰安婦ではない 違法少女売春婦だ 少女慰安婦像は韓国の恥である1大坂夏の陣図屏風



新発売


新発売・沖縄内なる民主主義13 A5版  定価1380円(税込み)
新発売・台風十八号とミサイル 定価1450円(税込み)


本土取次店 (株)地方・小出版流通センター
http://neil.chips.jp/chihosho/ TEL.03-3260-0355 
chihosho@mxj.mesh.ne.jp
県内取次店 株式会社 沖縄教販
電話番号098-868-4170
shopping@o-kyohan.co.jp

本土取次店 (株)地方・小出版流通センター
http://neil.chips.jp/chihosho/ TEL.03-3260-0355 
chihosho@mxj.mesh.ne.jp
県内取次店 株式会社 沖縄教販
電話番号098-868-4170
shopping@o-kyohan.co.jp

にほんブログ村 政治ブログへ
にほんブログ村
クリックお願いします

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
彼女は慰安婦ではない 違法少女売春婦だ
少女慰安婦像は韓国の恥である1大坂夏の陣図屏風
慰安婦問題と言えば第二次世界大戦中の日本兵相手の売春婦のことを中心に展開される。日本本土(内地)の日本人のほか、日本の植民地だった朝鮮半島や台湾出身者も慰安婦にされた。日本軍の侵攻に伴い中国、フィリピン、ビルマ(現ミャンマー)、マレーシアなど各地で慰安所が作られ、現地女性も送り込まれた。オランダの植民地だったインドネシアでは現地女性のほか、現地在住のオランダ人も慰安婦にされた。
 問題になるのは慰安婦ば性奴隷だったのかそうではなかったのかである。韓国は慰安婦は性奴隷だったと主張している。日本の場合は性奴隷であったという主張とそうではなかったという主張に二分している。
 韓国の元慰安婦たち、歴史的な事実、噂などが入り混じり、性奴隷であったという主張とそうではなかったという主張はいつまでも平行線である。混沌とした中にあるからこそ私たちは冷静に慰安婦について検証する必要がある。
 明治政府は四民平等、法治主義を掲げて始まった。帝国主義、富国強兵も掲げていたから、明治以後の日本が帝国主義であったことは否めない事実である。しかし、帝国主義であったから四民平等、法治主義はないがしろにしたということではない。明治政府は日本の近代化を目指して四民平等、法治主義を実現していった。慰安婦問題も日本では四民平等、法治主義に深く関係している。

大坂夏の陣図屏風



日本軍が大陸進出をし、戦争をしたから慰安婦が居たのは事実である。日本軍が大陸進出をしなければ慰安婦は存在しなかった。慰安婦が存在した責任は日本にある。それは異論を挟む余地はない。
 慰安婦が性奴隷であったのか、性奴隷ではなかったのかを主張し合う前に、私たちは慰安婦について正確に知らなければならない。慰安婦がどんな存在であったかを正確に知って初めて正当な主張ができる。
 慰安婦は先の大戦で急に誕生したのではない。誕生するまでには長い日本の歴史がある。私たちはそのことを知る必要がある。へ
 慰安婦問題をやる前にあなたに見てもらいたい絵がある。大坂夏の陣図屏風に描かれた絵である。

 大坂夏の陣図屏風(おおさかなつのじんずびょうぶ)は、慶長20年(1615年)に起きた大坂夏の陣の様子を描いた紙本金地著色・六曲一双の屏風絵である。大阪城天守閣所蔵、重要文化財。筑前福岡藩黒田家伝来で、「黒田屏風」、「黒田本」とも呼ばれる。戦国時代最後の戦いの激烈さと戦災の悲惨さを迫真の描写で描き出し、数ある日本の合戦図屏風の中でも白眉と呼ばれる。
大坂夏の陣図屏風 (大阪城天守閣・国指定重要美術品)

各隻150.3x360.7㎝の大画面に、人物5071人、馬348頭、幟1387本、槍974本、弓119張、鉄砲158挺などが精緻に描き込まれている。右隻には1615年6月3日(慶長20年5月7日)大坂夏の陣最後の戦いの様子が、左隻には大坂落城間際、または後の大混乱する様を迫真的に描き出している。全体的な構図は大坂城を中心に、向かって右が南、左が北で、右から左へ合戦の推移が時系列順に自然に展開するよう工夫されている。それだけなら合戦の絵であるが、大坂夏の陣図屏風には合戦ではなく戦争から逃げようとする敗残兵や避難民が描かれていて、略奪・誘拐・首狩りしようとする徳川方の兵士や野盗も描かれている。このような生々しい描写は他の合戦図屏風には見られない。

制作時期は、生々しい描写から陣後まもなくだったと推測される。福岡藩の故実によれば合戦に参加した黒田長政が、この戦いを記録するために筆頭家老の黒田一成、または家臣の竹森貞幸に命じて作成したものとされる。ただ、長政は右隻第2扇目中央やや上に、あまり目立たない形で描かれている。異説として右隻第3扇目上部にこの戦いで討ち死にを遂げた本多忠朝が奮戦する様子を描いていることから本多家で作られ、それが婚礼の輿入れ調度の一つとして黒田家にもたらされたとする説もある。しかし、黒田吉之に本多家の姫が輿入しているが、光之が編纂させた黒田家の故実成立と時期が重なっているためにこの説の信憑性は薄い。

描いたのは「八郎兵衛」なる絵師が一人で描いたとする説や、土佐派を学んだ「久左衛門」、両者を折衷する説、右隻と左隻で保存状態が異なり(左隻のほうが状態が良い)、描写の微妙な差異が指摘されることから、左隻はやや後に別の絵師によって作られたとする説や、同一工房内で複数の絵師が手掛けたとする説がある。
大坂夏の陣図屏風は戦をテーマにした絵である。武将たちが勇ましく戦っている絵が多い。しかし、この屏風は他の戦の屏風とは違う絵がある。兵士たちが戦っている絵だけではなくて、戦乱から逃げようとする町民を兵士が襲っている絵もある。
そして。女性が兵士に襲われる衝撃的な絵がいくつもある。世界でもこんな絵は少ないと思う。






戦場は無法地帯であることをこの屏風絵は如実に表している。殺人をしても強姦をしても逮捕する警官はいない。兵士のやりたい放題である。
勝ったほうの兵士は農民・町民の財産を取り上げ、抵抗するものは殺し、女を強姦する。それが当たり前のように行われていたのが戦争である。
  
 それは歴史的事実である。NHKの日曜大河の戦国時代ドラマの戦争の裏には農民・町民の惨劇が繰り返されていたのである。しかし、NHKは武将たちのかっこういいドラマを描くだけである。NHKだけでなく時代劇ドラマでは戦争の裏側で町民や農民が兵士に略奪され、殺され、強姦される凄惨な様子はほとんど描かない。描いてあるのが大坂夏の陣図屏風である。
大坂夏の陣図屏風は戦争をリアルに描いたというより、あってはいけない戦争の悲劇を描いたのだと考えられる。
 このような女性の性被害をなくすことを武将たちは考えていた。それが公娼制度の始まりである。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

細野豪志の二大政党を目指した決意は日本の政治に不可欠であるー細野豪志議員インタビュー



新発売


新発売・沖縄内なる民主主義13 A5版  定価1380円(税込み)
新発売・台風十八号とミサイル 定価1450円(税込み)


本土取次店 (株)地方・小出版流通センター
http://neil.chips.jp/chihosho/ TEL.03-3260-0355 
chihosho@mxj.mesh.ne.jp
県内取次店 株式会社 沖縄教販
電話番号098-868-4170
shopping@o-kyohan.co.jp

本土取次店 (株)地方・小出版流通センター
http://neil.chips.jp/chihosho/ TEL.03-3260-0355 
chihosho@mxj.mesh.ne.jp
県内取次店 株式会社 沖縄教販
電話番号098-868-4170
shopping@o-kyohan.co.jp

にほんブログ村 政治ブログへ
にほんブログ村
クリックお願いします

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
細野豪志の二大政党を目指した決意は日本の政治に不可欠であるー細野豪志議員インタビュー

新党結成へ「布石は打ってある」細野豪志議員インタビュー
民進党“次世代のエース”だった細野豪志衆議院議員(45)が、8月8日に離党届を出した。「裸一貫、1人で立ち上がる決意をした」と新党結成を打ち出している。民主党政権では原発事故担当相や環境相を歴任し、党務でも幹事長や政調会長を務めた。いま、何を見据え、何をしようとしているのか。離党届を出した翌日、衆議院議員会館の事務所でインタビューに応じた。
(鈴木毅/Yahoo!ニュース 特集編集部)

――離党届の提出から一夜明けて、率直な気持ちは?

2年間考え続けて、その上で決断したので、まったく迷いはありません。だから、本当に新しいスタートだな、という気分です。いま自民党だけではダメだと感じている国民も多い一方で、野党側に政権の受け皿がない。そこに応えるのは、いまの政治の世界に生きる人間の責任じゃないかと思う。その意味で、私の中で、「いまこれが必要なんだ」という“腹落ち”はしています。

――この2年間、何を考えてきたのですか。

民進党のあり方です。きっかけは2年前の安保法制の国会でした。当時、私は党政調会長でしたが、党は廃案を求めて「反対」に突き進み、対案を国会に提出できなかった。日本には、北朝鮮問題など現実的な脅威があります。それに対して答えを持たずに、政府の案にただ反対するというのは、政権を目指す政党として「まずい」と思いました。翌年の参院選で共産党と共闘することになり、次は衆院選でも、という流れができてきたので、ある時点から党を離れて新しいものを作ったほうがいいのではないかと考え始めたのです。


――「ある時点」とは?

今年に入ってからです。

政権担当能力とは何だったか

細野氏の動きが目に見えて加速したのは、今年4月、月刊誌『中央公論』に改憲私案を寄稿したときだ。私案は、「乳幼児から高校までの教育無償化」「大災害などの緊急時の国会機能確保」「地方自治体の自主的判断権の拡充」を3本柱とする内容で、これも「今年に入ってから」具体的にまとめ始めたという。寄稿では、この時期に私案を発表した理由について、「わが党が提案型政党になる最後のチャンスと捉えているからだ」と書いた。直後に、蓮舫代表のもとで務めていた代表代行の職を「いまの執行部は改憲に消極的だ」として辞任し、自身の党内グループ「自誓会」の会長も退いた。

――改憲私案を公表したのも、今回の離党につながっているのですか。

そうですね。憲法は、国の基本中の基本にかかわる政策です。国会議員をやっている以上は何かしらの見識があるべきで、安倍政権のいかなる動きがあっても、自分たちの案を持ってドーンと構えているべきです。

これまで何回かの政権交代を経験して、国民の政党を見る目が変わってきている気がしています。野党の役割は政府をチェックするだけでは十分ではなくて、いざというときに政権を担い得ること。「反対」ばかりしていることを国民は求めていないと思うんです。残念ながら、その辺の感覚が民進党の中でズレてきていて、私との間でも非常にズレが大きくなっていました。

安全保障を現実的に考えられるか

――安保法制の際に反対に終始したことで、政権交代の可能性が遠のいたと?

長い目で見たときに失ったものは大きいです。2002年から03年にかけてあった小泉政権での有事法制の議論では、民主党は修正案を出して、最終的に与野党協議で法案を成立させました。共産党などから反対の声も大きかったのですが、我々は安全保障に責任を持つのだという態度を示すことで、その後の政権に近づいた感触がありました。安全保障を現実的に考えているかどうかは、政権を取る資格と言ってもいいかもしれません。いま「憲法」「安全保障」「共産党」の3つが原因となって、全体状況として民進党が政権政党として国民からみなされていないのだと思います。

――自分自身が党を立て直すという選択肢はなかったんですか。

前原さんとはこの間も話をしまして、私とかなり考えが近いと思います。ただ、私はやっぱり「民進党を変える」のは非常に難しいと思っています。というのは、この2年間、党内で「共産党と組むべきではない」「憲法をきちんと出すべきだ」「安保法制は党として法案を出すべきだ」とずっと言ってきたのは私だ、という思いがあるわけですよ。それができないのは、いまの民進党を構成している議員全体として、そういうスタンスだからです。代表は影響力が大きいですが、代表が変わったとしても民進党の方向性が変わるとは思えませんでした。

離党はリスクだが、あえてとる

私に代表選への出馬を持ち掛けてくれた人もいましたが、仮に代表になっても、私が思う方向に持っていくのは無理だと思いました。代表選があってもなくても、私はこのタイミングしかないと思っていたので、結論が変わることはなかったんです。

――党内で思いを共有する仲間とムーブメント作っていくこともできたのではないですか?

それは考えました。実はこの2年間、何度かそういうことを頭の中でシミュレーションしてきました。でも、それを断念してきた理由は、常に「何人来てくれるか」「資金が集まるか」という問題でした。最後は自分で腹を決めるしかない。自分の中で一つの結論が出ているわけですから、今回は「1人でもやる」と決めたのです。

党を離れることは支持基盤を失う可能性もあるから、大きなリスクです。実際、私個人がもっとも安定的に議員を続けられるのは、民進党にとどまることです。だけど、リスクを取らない人間に「一緒にやろう」と言う人はいませんから。

今回の離党に際し、こだわったのは新しい政権政党をつくるための旗印だ。そこには「5つの理念」を掲げた。

1) 納税者・働く者の立場に立ち、多様性を大切にする内政
2) 現実主義に立脚した外交安全保障
3) 立憲主義に基づいた憲法改正の提案、特に、憲法8章改正による地方自治の確立
4) 第4次産業革命に適応した経済・社会保障改革の提案
5) 情報公開による透明性の高い政治の実現

――そこまで「新党結成」にこだわるのは、なぜですか。

健全な民主主義に向けて、野党は再編をして、もう一度、政権政党を作り直したほうが国民のためになると思うからです。
私は民主党という政党が黎明期で上り調子の時に入って、この党で育ててもらって、チャンスをもらって仕事をしてきました。その意味では、先輩たちが作ってきたものに寄りかかってきたのです。新しく作ることは、本当に大変だったと思います。それを自分でやるべき時期が来ているのではないか、チャレンジしてみようと考えたんです。

――新党は、どのような形になるのですか?

組み合わせとか顔ぶれとか形から入るのはなくて、理念や政策からだと思ったので、まずは旗を上げたのです。それが今回の5つの理念です。選挙互助的な組織を作っても何の意味もない。理念の一致なき政党は結局、後で苦労します。そのうえで、中心となる「核」を作りたいと思っています。大きな動きにならなくても、核があって目指すものが共有できれば、人が集まりやすくなります。

新党は誰とやるのか

――小池百合子・東京都知事と連携はしないのですか?


それはこれからですね。昨日(8日)まで私は民進党の人間でしたから、ケジメをつけたいと思っていました。いろいろな人と話はするけど、それは民進党の議員としての一定の枠内での話です。今日からは一議員になるので、自由度は相当高まります。民進党も人もそれ以外の人たちも連絡をくれるので、積極的に会っていこうと思います。

――4月に民進党を離党した長島昭久衆院議員や、渡辺喜美参院議員、松沢成文参院議員の名前も出ています。

それぞれよく知っていますが、幅広く話してみます。あまり慌てずに。

――2大政党を目指すとなると、来年12月までには必ず衆院選があります。

総選挙の前までに形にしていかないと。選択肢にならないといけませんから。

――野党再編が起こらないと、なかなか人数も集まりません。

まずは旗を立てて、そこで何人集まってくれるかということです。そのための核を作りたいと思います。それと、選挙戦で国民に訴えていく上で重要なのは、誰がトップになるか、誰がそれを言うか、です。私自身は、「自分が」という気持ちはありません。捨て石でもいいから、とにかく形を作れればいい。

――旗のもとに人数が集まる具体的な根拠はあるんですか?

私が「いけるんじゃないか」と思う源泉は、やはり国民世論です。自民党政権以外の政権政党をつくってほしいという声はかなり大きいと感じます。

――自民党との違いに何を打ち出しますか。

政権交代可能な政党にするために、大きな立ち位置としては、与党の政策と8割くらい重なっていないと難しいと思います。これが極端に離れてしまうと、国民は「どうなってしまうんだろう」と不安を抱えるでしょう。たとえば外交安全保障は違いを際立たせる必要はなくて、党派を超えてやればいいと思います。


ただ、政党として「個人の視点」と「国家の視点」の割合をどう考えるか、という部分はあります。私自身は個人が6、国家は4くらいがいいと考えていますが、いまの民進党は7:3。共産党は10:0かもしれない。逆に自民党は4:6、いまの安倍政権は3:7くらいかもしれません。

国家なき、政府なき国民はものすごく不幸ですから、国家の持続性は極めて重要です。ただし、国家はあくまで国民のために存在するんだという原則を忘れた時に暴走するわけです。今の安倍政権、自民党は、その原則への意識が弱いと思います。

憲法改正で地方自治を確立したい

政策の違いの部分ですが、今回、憲法8章改正を提唱しました。地方の自治を確立するという意味で国のあり方にかかわる重要な部分ですが、自民党ではあまり議論されていないし、主要項目にも上がっていない。地方自治については日本維新の会は積極的ですし、たとえば大村秀章愛知県知事や川勝平太静岡県知事も発言しています。小池都知事もどう考えているか聞いてみたいですね。


――改憲私案では「21世紀型の教育を受ける権利」として、義務教育の無償を乳幼児期の教育から中等教育(高校)まで拡充することも提案しています。

人生の初期の段階でチャンスを失っている若者たちの立場で、きちんと発言していく政党は必要だと思います。民進党はそういう役割を果たしてきたかもしれないが、自民党はそこがやや弱い。
ただ民進党も、その財源をどうするのか、具体的に誰に負担してもらうのかは、口を閉ざしてきた面があります。そこは、高齢者にもいろいろな経済状況の方がいて、資産がある人にはご協力いただきたいということを言わないといけない時期にきています。

――どの政党も、シルバー世代の反発を買うことは恐れています。

人口も多いし、投票率も高いですから、高齢者の皆さんに負担してもらって若い人たちの教育や子育てを充実させようと言うのは、勇気のいることです。ただ、いまの70代は、戦後の高度成長期を経験してお金に余裕がある人たちも増えていますし、若い人たちが自分たちよりも厳しい立場にいることもわかっています。たとえば、高齢で資産のある方には年金を辞退していただいて、若い人への奨学金や幼児教育にまわす。若い人たちにも声を上げてもらって、高齢者の人たちに理解を求めることが重要です。

事務所の議員執務室には、ケネディ米大統領のポートレートが飾られている。1962年のキューバ危機のときの写真だという。「政治家というのは、判断をしなくちゃいけないときがある。きわどい判断であればあるほど、判断を保留したいと思うんですよ。だけど、それが許されないケースがある」。細野氏の場合、それが東日本大震災の原発事故だったという。

今回の判断もそうだったのかと聞くと、こう答えた。

「原発事故のときの判断に比べれば、屁みたいなもんです。最悪の最悪でも、1人になって、選挙で落ちて、個人に戻るだけ。そんなこと国家には何の影響もないですから」

新党結成に向けて、どれだけの道筋が描けているのか、判然とはしない。新党を呼び水に大規模な政界再編への流れをつくることはできるのだろうか。そのとき、細野氏は政権交代可能な野党勢力の中心にいるのだろうか。

最後に細野氏は、昨年から始めたという囲碁に引っ掛けて、こう語った。

「布石は打ってあります」

鈴木毅(すずき・つよし)
1972年、東京都生まれ。慶應義塾大学法学部卒、政策・メディア研究科修了後、朝日新聞社に入社。「週刊朝日」副編集長、「AERA」副編集長、朝日新聞経済部などを経て2016年10月末に退社し、株式会社POWER NEWSを立ち上げ
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

細野氏の「たった一人の反乱」を二大政党への一歩にしてほしい



新発売


新発売・沖縄内なる民主主義13 A5版  定価1380円(税込み)
新発売・台風十八号とミサイル 定価1450円(税込み)


本土取次店 (株)地方・小出版流通センター
http://neil.chips.jp/chihosho/ TEL.03-3260-0355 
chihosho@mxj.mesh.ne.jp
県内取次店 株式会社 沖縄教販
電話番号098-868-4170
shopping@o-kyohan.co.jp

本土取次店 (株)地方・小出版流通センター
http://neil.chips.jp/chihosho/ TEL.03-3260-0355 
chihosho@mxj.mesh.ne.jp
県内取次店 株式会社 沖縄教販
電話番号098-868-4170
shopping@o-kyohan.co.jp

にほんブログ村 政治ブログへ
にほんブログ村
クリックお願いします

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
細野氏の「たった一人の反乱」を二大政党への一歩にしてほしい

 産経新聞の豊田真由美氏は民進党の細野豪志元環境相の離党を「たった一人の反乱」とし、
「盟友の前原誠司元外相のもとを離れ、蓮舫執行部からも逃げ出した身勝手路線が反発を受け、党内で居場所がなくなったのが真相といえる。今後は野党再編を主導するというが、たった一人の反乱への同調者は現時点で見当たらず、実現性には疑問符がつく」
と述べている。

「大将なんだから仲間のことも考えてほしい」「党が厳しいときだからこそ踏ん張るべきだ」
細野氏が立ち上げた党内グループ「自誓会」の4日の会合では、細野氏に自重を求める声が相次いだ。しかし、細野氏は「2年ほど前から党のあり方に思うところがあった」などと訴え、考えを曲げなかった。会合で追随を表明した議員は一人もおらず、むしろ離党を後押しするような突き放した意見も出たという。前原氏もこの会合直前に細野氏に電話し、離党を思いとどまるよう説得したが、翻意させられなかった。今の党内で細野氏への視線は冷ややかであるという。
 たった一人で離党する細野氏の行動は「たった一人の反乱」と言われても仕様がないことである。
 離党した細野氏の目的は二大政党をつくることである。今の民進党は保守と左翼が同居している政党である。細野氏は自民党に対抗できる新党結成を視野に入れていると明言し、「政権交代可能な二大政党制を作りたい。揺らぐことはない」と強調した。
民進党執行部は共産党との共闘を目指した。細野氏から見れば共産党と共闘すれば二大政党は作れない。二大政党をつくるには民進党を離れて新たな政権政党をつくらなければならないと考えているのが細野氏である。

「たった一人の反乱」であるが意義は大きい。しかし、前途多難である。しかし、二大政党をつくらなければ日本に新しい政治状況は生まれない。いつまでも自民党政権が続く。米国に二大政党の民主党と共和党があるように日本も自民党と対抗できる政党が必要である。

二大政党の可能性はある。
大阪府は日本維新の会が政権を握っている。東京ては都民ファーストが政権を握ったから、日本の二大都市を自民党以外の保守政党が政権を握ったことになる。

維新の会顧問の橋本徹氏も二大政党つくりを口にする。都民ファーストの若狭勝衆議院議員も二大政党を目指すと言っている。細野氏や他の保守系議員、そして、民進党の保守系議員も加われば二大政党の可能性が高くなる。

細野氏の「たった一人の反乱」を孤独の反乱にしてはならない。連携を広めて二大政党への一歩にしてほしい。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

細野氏、民進離党を検討。原因は共産党



新発売


新発売・沖縄内なる民主主義13 A5版  定価1380円(税込み)
新発売・台風十八号とミサイル 定価1450円(税込み)


本土取次店 (株)地方・小出版流通センター
http://neil.chips.jp/chihosho/ TEL.03-3260-0355 
chihosho@mxj.mesh.ne.jp
県内取次店 株式会社 沖縄教販
電話番号098-868-4170
shopping@o-kyohan.co.jp

本土取次店 (株)地方・小出版流通センター
http://neil.chips.jp/chihosho/ TEL.03-3260-0355 
chihosho@mxj.mesh.ne.jp
県内取次店 株式会社 沖縄教販
電話番号098-868-4170
shopping@o-kyohan.co.jp

にほんブログ村 政治ブログへ
にほんブログ村
クリックお願いします

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
細野氏、民進離党を検討。原因は共産党

細野氏、民進離党の意向…保守系数人も同調か
 民進党の細野豪志・元環境相(衆院静岡5区、当選6回)が離党を検討していることが3日、わかった。
細野氏は共産党との共闘のあり方に疑問を抱いていた」と明かした。細野氏は4月、党執行部が憲法改正に消極的だとして代表代行を辞任し、自誓会の会長も退いた。

細野氏に近い保守系議員ら数人も、同調する動きを見せている。小池百合子東京都知事が事実上率いる地域政党「都民ファーストの会」と連携し、新党を結成する案も浮上している。

複数の党関係者が明らかにした。細野氏は、自身が5月まで会長を務めていた党内グループのメンバーや後援会関係者らに対し、すでに離党の意向を伝えている。同グループは4日、都内で会合を開き、今後の対応などを協議する予定だ。

細野氏は、民進党内の保守系を代表する議員の一人。民主党政権下の2011年には、東日本大震災を受けて新設された原発相に就任し、環境相も歴任した。野党転落後は、海江田万里代表の下で党幹事長を務め、民進党の蓮舫執行部では代表代行に起用された。しかし、共産党との選挙協力や憲法改正を巡り、蓮舫代表らと見解が異なることなどを理由に今年4月、辞任した。
      8/4(金) 6:07配信 読売新聞
蓮舫代表が辞任したことにマスコミも評論家も蓮舫批判で大騒ぎしているが、民進党の深刻な問題は蓮舫代表問題にはない。保守と左翼が同居していることにある。この問題が根本的に解決できない限り民進党の内部分裂は続く。

細野氏が民進離党の意向を示した。原因は党執行部か共産党と共闘しようとしたことにある。
共産党は社会主義国家を目指している政党である。現在の日本は経済は資本主義、政治は議会制民主主義であるが、共産党の本音では資本主義も議会制民主主義も認めていない。表面的に認めているように見えるだけである。
そのことを知っている保守は共産党との共闘は拒否する。

前原氏が代表になれば保守の方針が採用されて共産党との共闘はなくなるだろう。しかし、前原氏の人気が落ちて枝野氏のような左派の議員が代表になれば再び共産党との共闘が持ち上がる。保守と左派が勢力を争う民進党には二大政党つくりを望むことはできない。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

蓮舫代表は都民ファーストとも共産党とも共闘して二大政党を目指していた。だから保守からも左派からも嫌われた。



新発売


新発売・沖縄内なる民主主義13 A5版  定価1380円(税込み)
新発売・台風十八号とミサイル 定価1450円(税込み)


本土取次店 (株)地方・小出版流通センター
http://neil.chips.jp/chihosho/ TEL.03-3260-0355 
chihosho@mxj.mesh.ne.jp
県内取次店 株式会社 沖縄教販
電話番号098-868-4170
shopping@o-kyohan.co.jp

本土取次店 (株)地方・小出版流通センター
http://neil.chips.jp/chihosho/ TEL.03-3260-0355 
chihosho@mxj.mesh.ne.jp
県内取次店 株式会社 沖縄教販
電話番号098-868-4170
shopping@o-kyohan.co.jp

にほんブログ村 政治ブログへ
にほんブログ村
クリックお願いします

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
蓮舫代表は都民ファーストとも共産党とも共闘して二大政党を目指していた。だから保守からも左派からも嫌われた。
 7月27日、民進党の蓮舫氏(49)は代表辞任を表明した。会見した蓮舫氏の目は腫れていたという。目の腫れは会見前に涙を流したということであり、辞任をしたくないのに辞任しなければならない状況に追い詰められた無念さの涙であっただろう。
 蓮舫氏は代表を辞める気は全然なかった。執行部を再編成して出直そうとしていた。しかし、できなかった。
 蓮舫氏は辞任の理由を、
「自分の中で昨日、一日考えて遠心力を働かせてしまった、どうやったら求心力に持っていけるのか、という部分でいろいろ考えた結果、その部分の思いが今回の判断につながったということだけを伝えさせてください」
と述べた。「遠心力」が辞任の理由である蓮舫氏は述べていると。蓮舫氏のどのような行動が「遠心力」を働かせてしまったのだろうか。
 最初の遠心力は共産党との共闘である。そして、第二の遠心力は都民ファーストの集会に民進党員を参加させたことである。蓮舫氏は小池都知事を女性政治家の先駆者として尊敬している。都民ファーストに敵対心よりも将来共闘する政党と考えていたとしても不思議ではない。
野党共闘によって二大政党を目指していた蓮舫氏は共産党も都民ファーストも共闘する政党として念頭にあったはずである。
しかし、共産党との共闘に対して民進党の保守派が反発した。長島昭久・元防衛副大臣(衆院比例東京、当選5回)は離党した。細野豪志代表代行は代表代行の辞任した。共産党との共闘は保守派へ遠心力として働いた。そして、都民ファーストへ民進党員を参加させたのは民進党員の反発を招いた。特に自民党員であった小池都知事の率いる都民ファーストを左派系は強く反発したに違いない。民進党を離党して都民ファーストに加入した党員が多かったのも蓮舫氏の責任であると思った民進党員は多かっただろう。これもまた遠心力として働いたのである。
蓮舫氏は保守系からも左翼系からも嫌われたのである。

 保守系も左翼系も同じ野党だから共闘するべきであると軽く考えていた蓮舫氏は保守系のイデオロギーも左翼系のイデオロギーも深く認識をしていなかったのである。だから保守系からも左翼系からも嫌われたのである。蓮舫氏は執行部再編をやろうとしたが幹事長を受ける者は一人もいなかった。側近である党執行部員には、幹事長候補者に「受けるな」と働きかける者も居た。側近が蓮舫おろしに加担するという異常事態も起きていたのである。だから蓮舫氏は新しい幹事長を決めることができなかった。ある党幹部は「最近の蓮舫さんは、近くで見ていて痛々しかった」と言う。すべての幹事長候補者から断られた蓮舫氏は代表を辞任するしかなかったのである。

週刊朝日は民進党中堅議員の言葉として、
「党の顔を代えたところで、民主党のイメージが残る政治家がトップなら、支持率が回復するとは思えない。まずは自由党の小沢一郎氏も一緒になって野党再編をする。その後は、都ファはもちろん、自民党の反主流派と一緒になるぐらいの大きな政界再編を実現するぐらいでなければ、再び政権交代は起こらない」
と述べているが、週刊朝日は野党再編するための肝心な点を抜かしている。それは共産党と民進党内部左翼リベラル派の排除である。野党再編から共産党や左翼を排除しないと自民党の反主流派と一緒になるのは無理である。都民ファーストや維新の党と一緒になるのも無理である。共産党と共闘するのに平気な小沢一郎も野党再編には必要ない。そもそも民主党政権時代に自分の利権に固執して民主党政権党を混乱させたのが小沢一郎であった。小沢一郎は排除するべきである。

 左翼系を排除した保守政党による共闘こそが野党再編を成功させることであり、二大政党をつくる最大のミソである。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
   次ページ »