沖縄戦になったのは日本が軍国主義だったからである


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沖縄戦になったのは日本が軍国主義だったからである
1945年(昭和20年)8月14日に昭和天皇や閣僚たちが御前会議において降伏を決定した。そして、8月15日に玉音放送を通じてポツダム宣言の受諾をした。日本は降伏をし、戦争は終わった。
 兵士と住民を合わせて20万人が犠牲になった沖縄はすでに米軍に占領されていた。沖縄を本拠地にして日本上陸を計画していた時に日本は降伏したのである。

玉音放送を聞いた日本国民は、失望し、深く悲しんだ。皇居に向かってひざまずき深く頭を垂れた。




戦後の沖縄に生まれた私の周囲にはアメリカ兵が多く居た。彼らは私服であったから普通のアメリカ人であった。周囲に住んでいるのはみんな沖縄女性と同棲しているアメリカ人であった。彼らは周囲の沖縄人より自由で明るかった。アメリカ人には親しみを感じた。
子どもの頃、隣には二つの貸家があり、アメリカ兵と沖縄女性が住んでいた。アメリカ兵は20歳くらいであった。アメリカ人が珍しいので私たちは貸家に行き、遊んだ。沖縄女性が通訳したのでアメリカ兵と会話ができた。
アメリカ兵はよくビールを飲んでいた。ビールの臭いは馬の小便の臭いと似ていたのでビールを飲んでいるのが不思議だった。私が「ビールはおいしいのか」と言うと、アメリカ兵は「おいしいよ、飲んでみるか」といってビール缶を渡した。飲んでみるとビールのまずさに吐いてしまった。私の様子を見てアメリカ兵は大笑いしていた。
学校では戦前は軍国主義国家であったが戦後は民主主義国家になったと言う教育を受けていたし、リンカーン大統領の「人民の人民による人民のための政治」の言葉に深く感銘していたから、戦後の沖縄に生まれ育った私は玉音放送にうなだれる写真に正直に言えば違和感があった。
自分の幸福を犠牲にしても天皇のために尽くすというのが天皇崇拝である。自分や国民の幸福のほうが天皇のために尽くすよりも大事であると思っていた私は天皇崇拝を受け入れることはできなかったし、写真のような人間にはなりたくなかった。

神風特攻隊にも私は違和感があった。ベストセラー作家の百田尚樹氏が名護市の数久田体育館で公演したが、百田氏は沖縄戦が始まった時から神風特攻隊が沖縄の米軍に死を賭けて特攻していったことや戦艦大和が沖縄の米軍と戦うために向かったことを述べ、日本は決して沖縄を見捨てたのではなく、沖縄のために多くの日本兵が戦い、死んでいったことを強調していた。
百田氏の主張は「日本軍は沖縄住民を守らなかった」という左翼の主張に対する反論である。沖縄の地上戦でも日本軍は壮絶に戦い、全滅した。日本軍は住民を守らなかったのではなく全滅したために守ることができなかったのだ。
百田氏の指摘はその通りであるが、神風特攻隊を出撃すれば戦況を逆転し、沖縄を米軍の進攻から止めることができたかといえば、そうではなかつたことがはっきりしている。神風特攻隊は戦況を逆転させることはできなかったし、沖縄を守ることもできなかった。それは最初から分かっていた。
神風特攻隊とは神風に頼った出撃であり、神風が吹かなければ戦況を逆転することはできないと信じるくらいに米軍と日本軍の軍事力の戦力は大差があった。
日本軍のトップなら沖縄が米軍に占領されることは知っていたはずである。知りながら沖縄戦をやり、住民、日本兵の犠牲を20万人も出したのである。
日本軍は沖縄戦の次は本土決戦もやろうとしていた。本土決戦をすれば本土も沖縄戦のように兵士も住民も米軍に殲滅され、犠牲者が何百万何千万人も出ていただろう。それを知っていながら日本政府は本土決戦をやろうとしていたのである。

昭和天皇の玉音放送で戦争は終わった。本土決戦はなくなり、これ以上の日本国民の犠牲は出さなくて済んだ。
玉音放送で本土決戦は阻止されたが、私の疑問は沖縄戦が始まる前のフィリピンが陥落した時に日本が降伏すれば沖縄の犠牲は免れたはずであるが、なぜ日本はフィリピンが陥落し、日本の敗戦は確実であったのに降伏をしないで沖縄戦をやったかということである。敗戦が確実であるならできるだけ早く降伏をして、犠牲を押さえるべきである。しかし、日本政府は降伏しなかった。そのために沖縄戦になり20万人の兵士と住民が犠牲になった。

日清戦争、日露戦争の時、清国やロシアは徹底抗戦をしないで、本国が攻撃される前に降伏して、賠償金を払い、領土を日本に提供している。過去の戦争では敗戦が濃厚になると降伏をし、自国の被害を少なくする努力をしている。日本もフィリピンが陥落した時に降伏するべきであった。しかし、日本は敗戦が濃厚であるのにも拘わらず降伏をしないで戦争を続け沖縄戦の悲劇を生んだのである。なぜ日本は沖縄戦が始まる前に降伏をしなかったのか。

なぜ、太平洋戦争が起こったのか、なぜ、日本は太平洋戦争に負けたのかの原因を説明する論文は非常に多いが、なぜ、沖縄戦になる前に日本は降伏しなかったのかを説明する論文はあってもいいと思うが、残念ながらない。ということは、敗戦濃厚になった日本が降伏をしなかった原因を解明する気がないのだろうか。私には不思議である。

私は中学、高校生の頃は映画が好きで、よく映画を見た。戦争映画も多く見た。神風特攻隊が敵艦に突撃する時に、「天皇陛下バンザーイ」と叫んでいる映画を見たし、二二六事件の映画も見た。戦争を美化する映画もあったし批判する映画もあった。字幕がスムーズに読めるようになると米国やヨーロッパなどの戦争映画も多く見た。外国の戦争映画には神風特攻隊や日本軍の玉砕を美化するような映画はなかった。美化するのは日本映画だけだった。外国の映画を見ていると日本軍が降伏を拒否して玉砕したのは本当に正しい選択だったのか疑問を持つようになった。玉砕を美化する映画や文章はよく目にしたが、玉砕を非難する映画や文章を目にすることはなかった。

日本軍の玉砕

1943年(昭和18年)
5月12日 米軍、アッツ島上陸(5月25日、日本軍は全滅し「玉砕」の語の使用が始まる)
1944年。
11月21日 米軍、マキン島・タラワ島上陸。11月23日 日本軍玉砕。
2月6日 クェゼリン島の日本軍玉砕。
6月15日 米軍、サイパン上陸。サイパンの戦い。7月7日日本軍玉砕、在住 日本人1万人死亡。
8月2日 テニアン島の日本軍玉砕。(テニアンの戦い)
8月11日 グアム島の日本軍玉砕。(グアムの戦い)
1945年(昭和20年)
3月26日 硫黄島日本軍玉砕    

なぜ日本軍は降伏をしないで玉砕をしたのか。日清、日露戦争の時は玉砕の思想はなかったから玉砕はしていない。しかし、太平洋戦争では降伏はしないで玉砕をしている。そして、玉砕することが日本兵として日本男児として美しいと美化している。 
日本軍が玉砕を推進した原因を調べてみると、日清、日露戦争の時の捕虜問題と武士道が関係していた。

日清戦争中に第一軍司令官であった山縣有朋が清国軍の捕虜の扱いの残虐さを問題にし、
「敵国側の俘虜の扱いは極めて残忍の性を有す。決して敵の生擒する所となる可からず。寧ろ潔く一死を遂げ、以て日本男児の気象を示し、日本男児の名誉を全うせよ」と「捕虜となるくらいなら死ぬべきだ」という趣旨の訓令を出した。

1905年(明治38年)には井上哲次郎が『武士道叢書』を発表した。『武士道叢書』は戦国時代の戦陣訓や葉隠の「武士道とは死ぬことと見つけたり」等を収めたうえで、日清日露戦争で勝利したのは日本古来の武士道によるとし、天皇への唯一無二の忠誠を唱え、忠義や滅私奉公、国家のためには死をも厭わぬものとして武士道を解釈した。これはのちに昭和17年に『武士道全書』へと継承され、太平洋戦争における「皇道的武士道」へ影響を与えた。
戦時国際法としての傷病者及び捕虜の待遇改善のための国際条約であるジュネーヴ条約に日本も加盟していたが、捕虜の待遇に関する条約(全97条)に日本は加入をしなかった。理由として、「日本軍は決して降伏などしないのでこの条約は片務的なものとなる」と述べた。
降伏をしないということは玉砕するということである。
太平洋戦争における日本兵の降伏拒否や自決は、東条英機の戦陣訓示の「生きて虜囚の辱を受けず」によるものと言われているが、玉砕の思想は『戦陣訓』以前からあったのである。
日本軍が玉砕したのは、日清、日露戦争の捕虜が残虐な扱いを受けたことに対する反発と武士道の教えが影響していた。しかし、武士道は兵士を武士とした日本軍内の問題である。民間人は武士ではないから武士道とは関係がない。しかし、沖縄戦では民間人も兵士にした。日本軍は民間人に二個の手りゅう弾を渡した。一個は米兵に投げ、一個は自決するためであった。日本軍は民間人も兵士にし、米兵と戦い、降伏しないで自決するように指導したのである。国民総兵士にしたのが軍部が政権を握っていた日本政府であった。軍国主義国になった日本政府は国民を総兵士にしたのである。

沖縄戦が始まる前に、
3月10日 東京大空襲
3月12日 名古屋大空襲
3月14日 大阪大空襲
3月16日 神戸空襲
3月25日 名古屋大空襲
があり、何十万と言う民間人が犠牲になった。東京大空襲では一夜にして10万人の市民が犠牲になった。国民の犠牲を止めるには降伏するしかない。しかし、日本政府は降伏しなかった。
 形勢を逆転する可能性はなく、国民の犠牲が増えていったのに日本政府は降伏しなかったのである。それは日本政府が軍部によって政権を握られた軍国主義国家であったからである。軍国主義国家ではなく、民主主義国家であったなら日本政府は国民を犠牲にするのを止めるために降伏していたはずである。沖縄戦もなかったはずである。

 玉砕思想を持っていた軍部は本土決戦をやる積もりでいた。軍部は日本国民全体で米軍を迎え撃ち、最後の一人まで戦う覚悟でいた。政権は軍部が握っていたし、国民も本土決戦を覚悟し、米軍と戦う積りでいたから、本土決戦になるのは確実であった。しかし、本土決戦にはならなかった。
本土決戦を止めたのが昭和天皇の玉音放送である。

日本は戦前の憲法が大日本帝国憲法であったように帝国主義国家であった。しかし、四民平等・法治主義を掲げていたから民主化への道も辿っていた。
大正デモクラシーが民主化の象徴である。
政治と軍事は分業化され、政治は政治家が行い。国の法律、予算を決めていた。次第に民主化が進んでいたのに民主化への道が軍によって一気に閉ざされた。その始まりが5・15事件の犬養毅首相暗殺である。
5・15事件をきっかけに日本は軍国主義へまい進していく。日本が軍国主義国家であったから沖縄戦が起こり、10万人近くの住民が犠牲になったのである。
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