多田 治氏への批判

  琉球新報2007年5月28日掲載

    沖縄の現実と知
       問い直したい当事者性
         再編法で「すり替え」

        
            多田 治氏に対する私的批判

 普天間基地が辺野古に移設するのは人口密集地から被害の少ない北部への移設になることで「合理的」であると二十代の沖縄の若者が辺野古移設に賛成したことに多田氏は衝撃を受けたという。そしてその意見が県内で多数の意見なりつつあることに危機感を感じている。
 若者の考えは常識的であり彼のような考えは昔から多かった。彼のような意見が表に出ないのはマスコミや政治家の性である。
 アンケートで県内移設と県外移設のどちらを選択するかと質問されれば圧倒的に県外移設である。しかし、県外移設の可能性はゼロに近い。むしろ県外移設の可能性を質問した方がより県民の意識を知ることができる。
 県外移設を公約に掲げる政治家は多いが彼らの県外移設公約には政治的根拠はない。票集めのためにあたかも県外移設が可能であるように公約するのは政治家失格である。
 政治家は庶民よりは国際政治に精通している。沖縄にアメリカ軍事基地が存在するのは国際的な政治状況と密接に関係していることであり、アメリカ政府や日本政府が簡単にいじれるようなものではない。
 政治家、マスコミ、知識人はもっと真剣に普天間基地の県外移設が可能であるかとうかについて見当し考えを述べるべきである。五年後か、十年後かそれとも二十年後かを討論した方がいい。普天間基地が五年後に県外移設するなら辺野古移設は見送ることもできる。しかし、二十年後なら辺野古移設の方がいい。
 県外移設派はアメリカの気持ち次第で県外移設ができるようなことを言うが、アメリカの気持ちは常に世界状況に左右される。沖縄基地に関しては中国が社会主義国家である限りアメリカ軍は沖縄から撤退しない。それは自明の理である。
 辺野古移設反対派は実は辺野古移設反対というより沖縄のアメリカ軍駐留に反対しているのだ。つまり普天間基地に反対しているのと同じ強さで辺野古移設を反対しているのである。つまり辺野古移設反対ではなくアメリカ軍基地反対なのである。

 私はアメリカ軍の沖縄駐留に賛成である。県民は賛成派と反対派が五分五分ではなかろうか。ところがマスコミや知識人は圧倒的にアメリカ軍の沖縄駐留反対派が多い。その原因を解明するのもこれからの課題ではないだろうか。

 私がアメリカ軍駐留に賛成する理由

1 太平洋戦争はアメリカによる日本の民主主義革命だった。

2 マルクスは「万国の労働者よ団結せよ。」と宣言した。私は民族主義や一国国  家主義ではないマルクスのインターナショナルな視点が好きである。日本人と  かアメリカ人とかで区別はしない。アメリカは民主主義国家であるし、アメリ  カの沖縄に対する関わり方も独裁政治的ではない。

3 戦争終結三年後に沖縄は総選挙をやった。ところが当選したのが共産党員や社 会党員だった。驚いたアメリカは選挙を無効にしたという事実がある。アメリカ 軍が駐留しなかったら沖縄だけでなく日本全体が中国の支配下に置かれた可能  性は高い。私はスターリンや中国共産党の社会主義国家には反対である。

4 アメリカが戦後沖縄の政治・経済を指導した内容は私は高く評価する。戦前は 日本の植民地に近い沖縄は政治・経済の指導者は育っていなかった。もし、アメ リカの指導がなかったら混乱が長引いていただろう。

5 人間は生活が豊かになるのは第一である。県民に芋裸足論を解く平和主義には  欺瞞を感じる。命を守る県民会議で指導者は芋裸足の生活をやってもいいから  異民族支配を許さない、軍事基地のない平和な島にするのだと宣言した。しか  し、裏では復帰すれば教職員や公務員の待遇が確実によくなるというしたたか  な計算があった。沖縄の復帰運動・平和主義には欺瞞を感じる。

 現在、沖縄の公務員の給料は官僚なみである。沖縄は公務員天国であり、経済発展を疎外している原因のひとつである。平和運動より沖縄経済の健全化が重要である。公務員の給料は県民税では足りないくらいである。公務員の給料は県民所得を基準にやり直すべきである。

 絶対平和、基地があるから戦争が起こる、アメリカ帝国主義、日本のアメリカ従属、アメとムチ論、軍事基地再編強化等々。祖国復帰運動から続いている沖縄の平和主義の用語は硬直してきている。このような硬直している言葉で構成される理論が大きな広がりの運動を作り出せるとは思わない。


辺野古移設賛成の「合理性」が交付金と連動しているというのは違う。若者の意見は経済とは関係なく被害を少なくするための辺野古移設論である。
 交付金は当然であって、まるでお金に魂を売ったような見解は卑小である。多田氏も業績主義に批判的でありながらそれを受け入れているではないか。受け入れる理由はお金である。人間生活にはお金が必要であり、常にアメとムチは全てのの人間に突きつけている問題であり、基地と交付金のそのひとつでしかない。辺野古住民の基地受け入れがお金に負けたように理解するのは辺野古の苦悩の選択を軽視している。学者であるなら事実をもっと深く調査するのが論理を深めることになるのではないだろうか。
 アメリカ軍事基地は撤去しなければならないという前提から脱して、アメリカ軍基地が存在しなければならない理由も背負いながら、沖縄の軍事基地の問題を追及していかなければ本当の基地を問題にすめことにはならない。

 日本もアメリカも民主主義国家である。観念的なあるいは理想的な民主主義国家ではないのであって現実的には日本もアメリカも進んだ民主主義国家だと言える。帝国主義国家ではない。沖縄のアメリカ軍基地は民主的な手続きで変化しているということは認めるべきである。
日本やアメリカを非民主的とか帝国主義のレッテルを貼って悪者にすれば非難するのは簡単である。しかし、そのような批判にどのような論理的力があると言えるのか。
 沖縄にはアメリカ軍基地がある。アメリカにとって沖縄の存在は軍事な価値である。しかし、沖縄は植民地ではない。沖縄を植民地として見るのは認識不測である。感情的にではなく客観的に沖縄を見る必要がある。


   
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