伊佐眞一氏の伊波普猷氏批判は後だしジャンケンだ。


琉球新報 伊波普猷「決戦場・沖縄本島」伊佐眞一

「不逞」なるアメリカ軍の上陸など恐れることはない。こちらには
「温暖な気候」や「地の利」があって、しかも「食料は心配ない。」
それゆえ、「勇敢なる琉球人に対し、私は大きな期待を抱く者であ
る」と大見得を切った人間が、その舌の根も乾かないうちに一転し
て、「無謀な戦争で国民が或はたほれ、或は傷つき家は焼かれ食糧
難に悩まされている」と叫び、「輪が沖縄本島は殆ど灰燼に帰し、
われら親兄弟は今どうして暮らしているかその安否さえ確かめるこ
とはできない」と嘆く。
そしてあげくのはては、「一体この責任は誰が負ふのだと言いたく」
怒りをぶちまけるのはいくら口ほど重宝なものはないにしても、余
りに無節操すぎやしないか。

 伊波氏への批判である。しかし、アメリカ軍が上陸する前の発言
はアメリカ軍の軍事力を過小評価しているものであり、学問や思想
とは関係ない。伊佐氏は「舌の根も乾かないうちに」と言うが沖
縄戦が起こる前と終わった後では時間は短くても内容はがらりと変
わっている。アメリカ軍の圧倒的な軍事力に沖縄は廃墟にされた現
実を見せ付けられたのだ。「舌の根も乾かないうちに」という指摘
は適当ではない。伊波氏の想像をはるかに越えた軍事力がアメリカ
軍にはあったということだ。

 私は伊波普猷氏にも琉球文学にも興味はないし、深くは知らない。
その私が伊佐氏の理論に反発するのは沖縄戦で日本が敗北したこと
を根拠に伊波氏批判をしているのはおかしいと感じたからである。
アメリカ軍の上陸を前にして琉球人を鼓舞した伊波氏を非難するこ
とができるだろうか。アメリカ軍に降伏しろと伊佐氏は言えるだろ
うか。そんなことは言えないだろう。戦う前から負けることを予想
するのは困難である。伊波氏は軍事専門家ではない。沖縄戦でアメ
リカ軍を撃退できると信じてもおかしくはない。
 悲惨な現実を見せ付けられた伊波氏のショックは計り知れないも
のであったことが彼の発言からひしひしと感じられる。「舌の根も
乾かない」うちにという見方は冷たい。伊波氏が深く沖縄を愛して
いる心情を理解していない。

 伊佐氏は伊波氏の学問と思想を一緒くたにしている。学問は過去
の歴史の解明であるが、思想は現実と将来への希求である。伊波氏
は沖縄の将来は日本化した方がいいと考え、「皇国民として」日本
と同化するのを望んだのである。
 私たちが考慮しなければならないのは伊波氏が天皇崇拝と沖縄の
日本化のどちらを優先させたかである。戦前における天皇は日本の
発展の象徴であったことは考慮しなければならない。天皇制と軍国
主義は同一ではない。軍部が満州事変や支那事変、政治家の暗殺等
で暴走しなければ日本は自由民権国家になった可能性もある。
 軍国主義と民主主義の熾烈な権力闘争があったわけだし軍部が政
治の実験を握ることによって軍国主義が台等したのである。「天皇
機関説」に天皇自身も賛成したのに右翼や軍部によって否定された
という歴史的事実もある。
 沖縄の低い文化を「日本の国家教育の力」で高めると考えるのは
間違いではない。沖縄の発展の方法として伊波氏が指示したことを
責めることはできない。歴史の発展は中央から地方へと移っていく
ものである。

 伊佐氏は「まさに沖縄が壊滅するかもしれないこのとき」と述べ
ているが、それは結果論である。アメリカ軍が上陸する前に沖縄の
壊滅を一介の学者である伊波氏が予想するのは不可能である。沖縄
の戦局を見誤ったことを根拠にして伊波氏の思想や学問を批判する
のはおかしい。
 戦後沖縄には米軍基地が存在する。戦後沖縄の基地問題が伊波氏
批判の根拠になるというのは理解できない。アメリカは沖縄にアメ
リカ軍を常駐させる計画はなかった。日本が軍事力のない民主主義
国家になればアメリカ軍は引き上げる予定だっただろう。しかし、
ソ連、中国の社会主義国家が登場し、社会主義国家はアメリカの脅
威となった。社会主義圏の拡大を防ぐために沖縄に軍事基地ができ
たのだ。それがなぜ伊波氏の学問、思想批判の根拠となるのか理解
に苦しむ。
 伊佐氏は現代億縄の基地問題をどのように見ているのだろうか。
伊佐氏は沖縄の基地問題が伊波氏の沖縄学を批判できる根拠を内包
していると思っているようだが、沖縄の基地問題は国際的な情勢か
ら生じたものである。基地被害は沖縄にとって重要な問題のなるが
米軍基地についての問題は伊波氏が築いてきた思想、学問との関わ
りはないと考えられる。

 伊佐氏の理屈は明らかに後だしジャンケンである。もし、沖縄で
アメリカ軍を撃退していたら成り立たない反論である。沖縄戦へと
続く戦時体制は「天皇、軍人、政治家」の思想的試金石にはなって
いない。戦争に負けたというのは物理的な敗北であって思想が敗北
したことではない。
 日本は戦争に負け、帝国主義憲法から民主主義憲法に変わった。
日本は軍人を権力から排除して民間主導の政治になった。天皇崇拝
批判、軍国主義批判の上に日本国憲法は存在する。もし、伊波氏が
天皇崇拝者だったら批判することもいい。伊波氏の学問が天皇崇拝
を根にしていたら批判できるだろう。しかし、伊波氏の学問は天皇
崇拝を根にしているだろうか。伊波氏が天皇を崇拝しているような
文章を書いたからといって伊波氏を批判しようとするのは夏目漱石
が天皇を崇拝していたから彼の小説は駄目であるというのに等しい
。森鴎外も天皇を崇拝している。だから森鴎外の小説は駄目と断定
していいのだろうか。
 沖縄の米軍基地はソ連・中国とアメリカの「冷たい戦争」という
特殊事情によって存在する。アメリカは民主主義国家であって帝国
主義でもなければ植民地主義の国家でもない。

「構造的差別の基地問題の発現である現代沖縄の基地問題などにみ
るように、彼の沖縄学が内包するアキレス腱にもかかわるだけに、
遠い過去のものとみなすことはできない。」

 「構造的差別」とはなんだろう。沖縄だけは構造的な差別を受け
る法律が適用されているというのだろうか。そうではない。沖縄に
適用されている法律は日本の普遍的な法律が適用されている。沖縄
の米軍基地が存在しているのを「構造的差別」と言っているのだろ
うか。でも軍事戦略とはそういうものであるし、沖縄に米軍基地が
集中したのは軍事戦略上の判断であってその結果「構造的差別」な
差別が生じてきた。しかし、復帰した後は日本の法律が沖縄にも適
用されている。伊佐氏は米軍基地の存在を客観的な認識ではなく沖
縄人としての被害者意識から判断している。だから「構造的差別」
という意識も生じてくる。沖縄から米軍基地がなくなることを伊佐
氏は当然の権利であると考えているかも知れないが米軍が駐留して
いるから沖縄の安全は守られていると考えている沖縄人もいる。私
もそのように考える一人である。「構造的差別」論は米軍基地が中
国・ソ連と対抗するために必要である考える人間にとっては普遍性
のある理論ではない。
 学問も思想も客観的視点が大事である。伊佐氏が沖縄人であるこ
とにこだわり被害者意識を根に持ちながら学問をすれば偏った学問
を形成するだろう。
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