お寺さんぽ Ver.03

現在は更新をお休みしています。

新田義貞を捨て、足利尊氏と和せられ給え… (楠木正成)14

2010年02月04日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
南北朝時代を勉強中…ということで、時代の英雄「楠木正成(くすのき・まさしげ)」についてお送りしております。
随一という戦功を上げ、数年のうちにこの世を去ることとなった、”歴史に残る戦術家”の活躍をご覧下さい。

建武元年(1334)
「後醍醐天皇」は念願だった天皇親政を開始。
しかし、トンデモな政治は論功行賞で無視された武士ほか、公家にも評判が悪かったのです。
建武二年(1335)七月に起こった「中先代の乱」を切っ掛けに、「足利尊氏」はついに反乱。
追討の「新田義貞(※写真)」を箱根・竹ノ下に撃破し、「楠木正成」も宇治で撃破され、一時は京都を確保しました。
しかし、奥州から出撃した「北畠顕家(きたばたけ・あきいえ)」は足利勢を破り、尊氏を九州へと追い落としたのです。
「後醍醐」は最大の危機を回避したんですが…。


建武三年[延元元年](1336) 二月
京都合戦の功労者「北畠顕家」は、”鎮守府大将軍”の肩書きを受け、奥州へと引き上げていきました。
(※その前は”鎮守府将軍”ということで、新たに「」がついたのですよ。…ギャグではなく)
政権の危機を回避したことで、公卿らは大いに喜んでいました。
しかし、ほとんどが戦勝に酔いしれる中、現状を楽観していない者がおりました。

事を構える新田義貞を捨て、足利尊氏と和せられ給え…

そう、我らが「楠木正成」さまです。
彼が進言していたこと。
味方である義貞と断交し、武士の声望を集める尊氏を取り込め、ということですね。
非常に興味深い、後の歴史を知る我々にとっては、凄まじい策であることが分かります。
籠城戦もそうですが、この人は凄いですね!!
才あって天下の声望を集める尊氏に対し、義貞にはどっちも…微妙なところ(笑)
尊氏が九州で再び勢力を取り戻して攻め込んできた際には、もう勝算がないだろうと考えていたのです。

しかし…
正成は臆したか
出自・位が低く、また先の勝利で浮かれていた公卿・政府には嘲笑され、その奇策は結局・当然ながら受け入れられなかったのです。

まぁね、そのが当然のことでしょう。
負けた相手とわざわざ和睦して、味方(いちおう)を切り捨てようなんてしませんわね。

ちなみに、九州へとほうほうの体で逃れた尊氏ですが、その直前にはちゃっかり持明院統の「光厳天皇」より院宣を受けています
持明院統としては、親政を始めた「後醍醐天皇」の大覚寺統を潰すため、尊氏の力が必要なんですね。
どちらが正統であるかは置いといて、大義名分をしっかり整えていたのです。

こうして、少弐(しょうに)一族に迎えられた尊氏は、九州にて再起を果たします。
京都へ戻るべく、着々と上洛の兵を整えていくのでした。

ちなみに、この尊氏討伐を命じられていた義貞はじれったいほどに行動が遅く…
また、三月に六万という大軍と共に出陣したものの、播磨にて「赤松円心」の白旗城(守備隊は八百あまり)に阻まれて進めず、なんと尊氏西上の報まで手こずった挙句、攻略できぬまま撤退するのでした。
いきなりダメっぶりが発揮されてしまったのです。

⇒ つづく。
  次回は「合戦はとにかく終始勝つことこそ肝要」 (15/16)

[関連記事] 【室町時代セット】
⇒ 室町時代(歴史さんぽ)
⇒ 続・室町時代 中央政治編
⇒ 続・室町時代 地方政治編
⇒ 関東公方と関東管領 (歴史さんぽ)
⇒ 南北朝時代の若き英雄 「北畠顕家」(    
⇒ 父の背中を追う英雄 「楠木正行」(前編 中編 後編
⇒ ”六分の一殿”の名門・山名一族 [   
⇒ 史上最悪の市街戦「応仁の乱」[     


 ★宜しければ応援クリックお願いします。  ⇒ 【人気blogランキング】


経営と未来予知―楠木正成の経営術 (たちばなビジネスコレクション)
深見 東州
たちばな出版

このアイテムの詳細を見る

※そのためか、経営術にまでなっているのでした。
 でも、なんで正成さま主役のドラマとか、ゲームはないかなぁ。