波と狛のつれづれ日記

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絶体絶命の細川幽斎(丹波・丹後方面旅行その3)

2019-09-07 02:11:01 | 人物伝

こんばんは、白黒茶々です。

お盆休みの最終日となる8月15日は、私はたつぴと一緒に舞鶴市のプラザホテル舞鶴に泊まっていました。 その日は台風10号が迫っていて、まわりは厳戒体制に入りつつあったのですけど、こちらは雲が多くて風はややあるものの、時おり青空や日差しが見えるような天気でした。

 

ちなみにこちらのホテルは、私たちが利用したエコノミーツインが1泊朝食付きで税込9200円(1人あたり4600円)。 ちょっとサラダがかぶっているのですけど、美味しくいただきました。 モーニングセットで朝の活力を充填したら、この日最初の目的地に向かいますよ
舞鶴駅前にあるプラザホテル舞鶴から歩いて10分ほどで………

 

お城の石垣と櫓門が見えてきました こちらは田辺城で、別名を舞鶴(まいづる……… ではなく、ぶがく)城といいます。

 

細川幽斎という人物がこのお城を築いたのですけど、皆さまは彼のことはご存知でしょうか? 彼は細川忠興の父でもあり、のちに田辺城の戦いで大軍を相手にしたことは歴史上の出来事としてハズせません。 なので、今回は田辺城を巡りつつ、幽斎の人物像について探求していこうと思います。

 

田辺城の城門の北側の石垣の上には、昭和15年(1940年)に建てられた隅櫓(彰古館)があります。普段はその内部は公開されているのですけど、この日は台風の接近を理由に閉鎖されていました。
幽斎は、来年の大河ドラマ「麒麟がくる」の主人公の明智光秀にとって大切な人物で、そのドラマでも重要な役割を担うと思われます。彼の嫡男の細川忠興は、関ヶ原の戦いで徳川家康率いる東軍についたのですけど、細川ガラシャの夫といったほうが分かりやすいかも。ガラシャは明智光秀の娘で、本名は玉といいます。彼女は、忠興の正室となったのちにキリスト教徒となり、洗礼を受けてガラシャと呼ばれるようになりました。関ヶ原の戦いの直前に、石田三成は敵方の東軍の武将の妻たちを人質に取ろうとしたのですけど、ガラシャは断固拒否 やむなく、三成が武力でもって実力行使しようとしたら、ガラシャはキリストの教えで自害することはできなかったので、家老に長刀で胸を突かせたのでした。

 

隅櫓(彰古館)は模擬建築なのですけど、戦前に木造で建てられたということもあって、風格があります。
ここで、話は細川幽斎に戻らせていただきます。 安土桃山時代の天正8年(1580年)、織田信長の命によって細川藤孝(のちの幽斎)は明智光秀と協力し、丹波・丹後を平定しました。 そのうちの丹後国は細川藤孝・忠興親子の領国となりました。藤孝は当初は宮津城を居城としていたのですけど、京都に近くて交通の要所でもあった旧丹後守護所の加佐郡八田に、地名を田辺と改めた上で田辺城を築き、子の忠興を入城させて、統治の中心としました。 天正10年(1582年)頃にお城は完成し、その年の6月に起こった本能寺の変の後に、藤孝は隠居。その際に名前を幽斎と改めました。 彼は戦国大名でありながらも、すぐれた文化人でした。 和歌・連歌をはじめとして、太鼓、謡曲、乱舞、禅、料理、茶道、書道、鞠、有職故実に至るまで多彩な才能を発揮。さらには、三条西実枝から歌道の奥義を許された「古今和歌集」の秘事口伝の伝承者(古今伝授)でもありました。

 

田辺城跡では、近年の発掘調査によって出土した、天守台の石垣も見ることができます。
慶長5年(1600年)に関ヶ原の戦いがあったのですけど、その前哨戦や東軍と西軍の戦いは、関ヶ原以外の全国の至るところでもおこなわれていました。 細川忠興が徳川家康についたことから、石田三成は丹後の細川攻めをすることを決断し、その周辺の西軍の大名に召集をかけました。 その兵の数は約1万5千人。一方の忠興は、家康に従って会津の上杉攻めに向かってしまったので、不在でした。 丹後に残された幽斎は、兵を集めても5百人ぐらいにしかなりませんでした。そこで、彼は地理的に不利な宮津城を焼き払い、田辺城に籠城する決意をしたのでした。

 

その田辺城には、幽斎の頃に築かれたと思われる本丸の石垣が残っています。
細川軍の兵の数は圧倒的に不利だったのですけど、籠城は50日にも及びました。その間、援軍の見込みはなく、勝利はおろか落城寸前にまで追い込まれていました。
その一方で、田辺城の制圧に参加していた西軍の諸将の中には、幽斎を歌道の師として崇拝する者がいくらかいて、彼らには城を攻め落とすことにためらいがありました。 また、幽斎の弟子の一人である八条宮智仁親王や、彼の兄の後陽成天皇も、幽斎の討ち死にによって古今伝授が廃絶することを恐れていました。 そのような中で、八条宮は幽斎に田辺城を開城するように説得したのですけど、彼は断固拒否 「城を明け渡すぐらいなら、自害したほうがまだマシ 」って、このようなところで武士らしいところを出すなんて………

 

田辺城跡に造られた舞鶴公園には、このような石碑が立てられています。 達筆過ぎて読めないのですけど………
「古へも 今もかはらぬ 世の中に 心のたねを のこすことの葉」と、刻まれているそうです。これを現代語に訳すと………
変わらない悠久の時の流れの中に、和歌は言葉によって心の種を残していくものです。そのように私の歌と心も残るならば有難いことです。
幽斎は八条宮に宛てて、開城を断る書状にこの一文を添えました。 そうしたら、今度は後陽成天皇から幽斎と西軍の双方に、開城の勅命が届けられたのです 天皇の勅命とあっては、逆らうワケにはいきません。 西軍はただちに包囲を解き、幽斎の身は亀山城に預けられることに。これをもって、田辺城の戦いは幕を閉じました。

 

その籠城戦の間に関ヶ原の戦いは終わっていたのですけど、徳川家康は「東軍が勝てたのは、丹後の西軍が田辺城に釘付けになっていて、合戦に加わらなかったおかげである 」と、幽斎を誉め称えました。
忠興は関ヶ原の戦いの功績によって、豊前小倉藩39万9千石に栄転。一方の幽斎は、京都吉田で悠々自適な晩年を送ったと云われています。 そして慶長15年(1610年)8月20日に、77歳でその生涯を終えました。 

 

田辺城の見学を終えた私とたつぴは、今度は福知山に向かいました。 その市役所の裏にある伯耆丸公園という高台からは、いい感じで福知山城が見えました。 かつてはこちらの山とお城の本丸は地続きで、その間が二の丸となっていたのですけど、明治以降に切り崩され、本丸が孤立したような状態となっています。

 

市役所の前からは、いい感じで福知山城を眺めることができました。
といったトコで、福知山城の説明をさせていただきます。 このお城は、天正7年(1579年)に織田信長の命によって丹波を平定した明智光秀が、統治の拠点として築きました。その後城主が代わったりしたのですけど、慶長5年(1600年)頃に完成したとされています。 明治初期に取り壊されたのですけど、昭和61年(1986年)に大天守と小天守が外観のみ復元されました。
そうしたら、今からそちらに向かいますよ

その本丸までは、麓からちょっと急な坂を上っていきます。 最近運動不足を自覚し始めたたつぴは、早くも息を切らせております。 そういう私は……… まだ大丈夫ですよっ

 

ハアハア……… 山頂部に釣鐘門が見えてきました。 小ぢんまりとしているのですけど、明治時代の古写真などの資料をもとにして、平成20年(2008年)に復元されました。

そして、私たちはようやく本丸にたどり着きました。 こちらでは、自動販売機に描かれた、新たな解釈(?)によるイケメン光秀が出迎えてくれました。

 

ちなみに向こうに見える建物は、銅門続櫓(あかがねもんつづきやぐら)にございます。 この建物はかつては二の丸の入口にあったのですけど、明治以降に小天守台に移築され、さらに大天守と小天守の復元にともなって、ちょっとズラした現在の場所に落ち着きました。 しかし「麒麟がくる」の来客に備えているのでしょうか?お城ではあちこちで舗装工事がおこなわれていて立ち入り制限もあり、私たちは銅門続櫓には近づくことができませんでした。

 

それに、ただでさえ本丸からの距離が近すぎて、天守の全体像が撮りにくいというのに、その立ち位置も限られていました。 それでも、東側は大丈夫みたいなので、今度はそちらに廻っていきます。

 

その大天守台の石垣には、灯籠や墓石などが転用されています。 これらから、築城時に石材の調達に苦労したことがうかがえます。

 

さらにその向こうには、豊磐井(とよいわのい)があります。福知山城の本丸は麓から20mの高さのところにあるのですけど、この井戸は岩盤をくり貫き、さらに地上より30mもの深さまで掘られています。 合わせて50mもあり、今でも水を湛えているそうです。
その後方に見える建物が、大天守と小天守なのですけど………

 

こちら側からでも、近すぎてフレームに収まりきれません。

 

それでも、朝暉神社の裏側まで下がったら、なんとか格好がつきましたよ 前フリが長くなってしまったのですけど、いよいよその内部に入りますよ

って、そ、そんな……… せっかくここまで来たのにぃ~!

 

※白黒茶々さん、中には誰もいないので、叩いてもムダですよ。(編集部注)
なんちゃって 実はこうなっていることは、事前の情報で知っていたのですよ。 それでも、せめて写真だけでも撮っておきたくて、私たちはここまで来たのでした。そのような状況を知ってか知らずか、私たち以外にもお城を訪れる人はけっこういました。

台風によって列車が遅れたり運休したりする恐れがあったので、私はホテルを出る前に、今回の旅行のスケジュールを練り直していました。 メインだった天空の竹田城は断念し、午前中に予定を切り上げて早めに帰路に就けば、多少遅れることがあっても、無事に帰ることができるでしょう。

 

その前に、こちらでお昼御飯を食べていくことにしましょう この地方のご当地食を調べたら、福知山駅の北側にあるこちらの丹波粉もの屋というお店で、ゴム焼そばなるB級グルメが食べられるということがわかりました。私は前日の昼にも焼きそばを食べたのですけど、この際気にしないことにします。 ガラガラ……… いらっしゃいませ

単品でもよさそうなのですけど、やはり旅行を切り上げる前にはがっつり食べておきたいですね。 なので、いろいろ付いているゴム焼そばランチにしておきましょう そのお店のテレビでは、終戦記念日の戦没者追悼式の中継をやっていました。そうしているうちに正午を迎えたので、私たちはその場で黙祷しました。

 

それからしばらくして、注文の品が運ばれてきました。ゴムを称することから、やはり弾力や伸縮性のある麺なのでしょうか?とにかく、いっただきま~す  ぞぞぞ………
ふおっ 私の予想に反して、麺はやや固めでしたよ。これは、固いゴムをイメージしているのでしょうか?それでも、独自のトマトソースと相まって、ご飯が進みました。

お腹も心も満たされた私たちは、福知山駅から帰りの列車に乗っていくことに。 ところが、予定していた山陰本線はすでに不通になっているというではありませんか 兵庫県内のJR線は、早々と運行を取り止めたみたいです。この段階で運行していたのは、舞鶴線の東舞鶴行きと、福知山線の篠山口行きの2本のみ。それならば、まずは舞鶴線で東舞鶴まで行って、そこから日本海側を通る小浜線を経由して、北陸の敦賀方面に落ち延びる手は使えないでしょうか? そのことを駅員さんに聞いてみたら……… えっ、東舞鶴から先は不通になっていて、そこから接続する列車はないですって これによって、1つの退路は絶たれました。
残るは福知山線の篠山口行きだけなのですけど……… それは福知山駅からの最終列車となり、篠山口から先はすでに不通になっているそうです。 そのような状況となってしまったのですけど、その列車に乗るか?乗らないか?やはり、行けるところまで行ってから、そこから先のことを考えることにしましょう。

………という流れで篠山口駅にまで来たのですけど、ここから先の足はありません。 丹波篠山にとても失礼なのですけど、このような中途半端なところで投げ出されたら、困ります。 ここで明日の朝になるのを待つとしても、この周辺にはホテルの類は見当たりませんし。もしあったとしても、いきなり行って部屋が空いているかどうか。そうしたら、台風が来るというのに、野宿するしかないのでしょうか?まさかそのような中で、駅から閉め出されるなんてことはないですよね? それよりも、私とたつぴは、翌日は双方とも仕事があるのですけど……… 細川幽斎だけではなく、私たちも絶体絶命となっていました。 このような状況の中で、助かる手段はあるのでしょうか?次回の日記に続けさせていただきます。



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