波と狛のつれづれ日記

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竹中半兵衛の里から天下分け目の決戦地へ(大垣・垂井・関ヶ原歴史散策その2)

2024-01-20 01:08:52 | お出かけ

こんばんは、白黒茶々です。

前回、私はと一緒に大垣城を訪れ、そこで関ヶ原の戦いに想いを馳せました。 その勢いのまま、決戦の場となった古戦場方面に向かっていったのですけど、軌道はだんだんと北のほうに逸れていきました。 断っておきますけど、決して道を間違えたというワケではありませんよ 関ヶ原に突入する前に、通り道というにはちょっとムリのある場所にも寄っていきたかったのです。 そのようにして、私たちが向かったところは………

垂井町にある、竹中氏陣屋跡でした 江戸時代初期に建てられた櫓門は現存していて、今でもその立派な姿を見ることができます。

さらにその脇には、竹中半兵衛重治の銅像が 両脇には、白犬を従えていますね 竹中半兵衛といえば、16人の家臣を従えてわずか1日で稲葉山城(現在の岐阜城)を乗っ取ったという武勇伝があり、羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)の軍師としても知られています。 そんな半兵衛は近くの菩提山城という山城を拠点としていたのですけど、嫡男の重門は麓の平地に岩手城という簡素なお城を築き、そちらに移り住みました。 関ヶ原の戦いでは、重門は徳川家康側の東軍として参戦することに。

それから、竹中半兵衛になりきり体験ができる装置(顔ハメパネル)もあったので、顔を突っ込んでおきました。 これは、竹中狛兵衛ってトコでしょうか?

竹中氏は6000石の旗本ということもあって、岩手城竹中氏陣屋と呼ばれるようになりました。 櫓門の南側には、石垣水堀も残っています。

陣屋内には菁莪(せいが)堂という学校が設けられ、それは現在の岩手小学校へと繋がっていきました。 その小学校は、竹中氏陣屋跡の敷地の大半を占めています。 明治時代に開校した菁莪義校の校舎の玄関部分は………

近くに移築され、竹中氏関連の資料を展示する菁莪記念館(の入口)として活用されています。 しかし、この日はお休みだったみたいで。

それはさておき、竹中氏陣屋の櫓門は岩手小学校の校門にもなっていて、「ナニコレ珍百景」で「児童たちは、江戸時代から現存する貴重な櫓門を毎日くぐり、学校に通学している」と紹介されました。 そして、見事に珍定されました。 そのあたりも学校の敷地となっているのですけど………

私たち一般人でも櫓門をくぐって、ちょっと先までだったら入れるようになっていました。 竹中氏陣屋跡は小さいながらも見応えがあり、近くに専用の駐車場も設けられていて、見学者にも優しかったです。 そんな半兵衛や重門ゆかりの地をあとにした私たちは………

陣屋跡からは車で10分程のところにある、桃配山に行き着きました。 ちなみにこちらの山は、関ヶ原の東の端に位置しています。

見学者用の駐車場から道路を渡って、いざ山の上(中腹)へ

桃配山は、天武天皇元年(672年)の壬申の乱の際に、大海人皇子(のちの天武天皇)がこの地に出陣し、兵士たちに桃を配って戦いに勝利したという、縁起のいい場所でもあります。 石田三成らの西軍と関ヶ原で対決することになった、東軍の総大将の徳川家康は、その故事にあやかって慶長5年(1600年)9月15日に、こちらに最初の陣地を構えました。

下の段からの眺望はそこそこ良いのですけど、関ヶ原の決戦地はけっこう遠いです。 それから、私は桃配山で桃を食べてみたいと思っているのですけど、初めて訪れた9年前と同じく、今回も深秋の11月に来てしまったので、桃は思いっきり時季外れです。

それはさておき、次のチェックポイントを巡ることにしましょう 私たちは桃配山からは車で7分、距離にすると2km程のところにある、岡山(丸山)烽火場に向かいました。 こちらも小高い丘にあって、竹やぶを抜けていったら………

ああ、その手前の紅葉が綺麗ですね。 たまたま紅葉狩りの時季と重なった、今回の古戦場めぐり企画。 坂を上り詰めて、視界が開けたその先では………

関ヶ原をほぼ見渡すことができました のぼりが陣地らしさを演出しているのですけど、風が強すぎてその絵柄を見ることができません。

それはさておき、こちらは戦いの烽火(のろし)を上げた重要拠点で、竹中半兵衛重治の嫡男の重門と、黒田官兵衛孝高の嫡男の長政が陣地を構えたところでもあります。 こちらでは現代版ののろしとなるロケット花火を……… 打ち上げたらさすがにマズいですよね。 なので、今回は私の妄想の中だけにとどめておきます。 じわりじわりと関ヶ原の中心部に迫っている私たち。 今度は、新たな観光名所となった岐阜関ヶ原歴史記念館などの見学者用の臨時駐車場に車を止めて………

ちょっと中心から外れたところにある、東首塚を見に行きました。 現在は公園となっていて、そこにある朱色の社殿は、名古屋の神社から持ってきたそうです。

関ヶ原の戦いのあと、徳川家康は戦場に散らばっていた兵士の首や遺骸を集めて、西と東の2ヶ所に塚を造って葬りました。 それから200年以上も経った文化8年(1817年)に、関ヶ原本陣の主だった古山兵四郎は、関ヶ原の戦いの地が将来忘れ去られることを危惧して、首級墳碑を建設しました。 大きな石碑に難しい漢文で刻まれているのですけど、それらを要約すると………

徳川家康が東国で勢力を拡大したため、石田三成は豊臣政権が不利と見て兵を挙げた。 慶長5年(1600年)9月、関ヶ原において両勢力が激突したが、三成側が大敗。 家康は東西2箇所に首塚を造り、全ての首や遺骸を葬らせた。 豊臣のために犠牲になった首を納め葬ることは仁義に厚く、家康の教えが泰平の世をもたらしたといえる。 将来この首塚が丘や谷に変わり果てることのないように願うものである。

「豊臣のために犠牲になった首を………」や「家康の教えが………」のあたりには、ジ~ンときました。 歴史が起こった場所に立ち、語り継いでいくのには意味があって、大切なことでもあります。 関ヶ原レポートはここで一旦仕切らせていただきますけど、これから佳境に入っていくので、次回の日記もお付き合いくださいませ。


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