こんばんは、白黒茶々です。
大河ドラマ「どうする家康」は昨年で終わり、今年に入ってからは紫式部を主人公にした「光る君へ」が始まりました。 私は言うまでもなく、戦国時代のあたりの歴史が特に好きで、ドラマとリンクするように、その舞台となった場所を訪れたくなります。
昨年の11月には、「どうする家康」では大きな見どころとなる関ヶ原の戦いが出てきました。
それから間もなくして、私はそれにまつわる名所旧跡を訪れたのですけど、昨年のぶんの波狛日記の枠には収まりきらなかったので、そのレポートはまだ公開していませんでした。
………ということで、少し前の話になるのですけど、年が改まって落ち着いたところで、私が波と狛を伴って散策してきた、大垣~関ヶ原方面の話をさせていただきます。 話は昨年の11月25日の土曜日までさかのぼります。
私はその日の夜に行動を始めて、車で東名高速道路に乗っていきました。
そのようにして最初に寄ったところは、上郷サービスエリア(下り線)でした。 こちらでの目的は……… チェックポイントというか、いわゆるトイレ休憩です。
さらに私たちは高速道路を西に向かっていき………
尾張一宮パーキングエリア(下り線)に行き着きました。 時刻は日付を跨いで11月26日(日曜日)の1時ちょっと過ぎ。翌日の欲張りコースめぐりに備えて、今からこちらで車中泊をしますよ
ということで、皆さまおやすみなさい。
皆さま、おはようございます ブログの表記では、一瞬で夜が明けました。
こちらのPAには、小さいながらもドッグランが設けられているので、その中で朝の運動をしますよ
たまたま貸切状態だったので、心置きなく動き回ることができました。 この行程を終えたら………
朝の食事と相成ります。 ちなみに私のほうはというと……… あとのお楽しみにしているので、もう少しお待ちくださいませ。
そのあと、私たちは高速道路を走っていき、大垣インターチェンジで降りていって………
大垣市内にある、カフェ待夢(たいむ)さんというお店に行き着きました。 こちらでの目的は……… もちろんモーニングですよ
大垣市は豊橋市に負けず劣らずモーニングのお店が充実していて、私は選ぶのにかなり悩みました。
それでもある特徴から、カフェ待夢さんを選びました。
とにかく、その店内に入りましょう!こちらは人気があって、7時台からけっこう混んでいたのですけど、私は単独だったのですぐにカウンター席に通されました。
まずはモーニングの土台となる、ドリンク類を選びましょう。 とはいっても、すでにコーヒーが来ているのですけど。
引き続いて、コーヒー代(500円)だけで食べられるレギュラーモーニングのメニューを決めなければなりません。 どれも美味しそうで、つい目移りしてしまいますね。
いや、先ほど見たのはほんの一部で、メニューはパン系や和食系はもちろんのこと、おやつ系や時季限定メニューなどもあって、その数は100以上にも及ぶそうです。 もちろん、私のモーニング史上では断トツでトップの数です。
私は下調べをして、ある程度は絞ってきたのですけど、それでも迷ってしまいました。
そのようにして選んだのは………
自家製タルタルのチーズトーストのセットでした ゆで玉子やサラダはもちろんのこと、コロッケやコーンスープまでも付いてくるなんて、嬉しいですね。
ドレッシングやソースなどはテーブルに備え付けられているので、各自お好みの量をかけてお召し上がりくださいませ。
それらを美味しくいただいたら、いつか全メニューを極めるという夢を抱きつつ、カフェ待夢さんをあとにして………
私たちは同市内の中心部にある、大垣城に到着しました 正確には、その真ん前にある有料駐車場ですけど。
まだ(外観)復元天守は開館前なので、それまでの間は写真を撮りつつ外をブラブラしていましょう。
まずは、大垣公園のイチョウの木の前で撮っておきました。 訪れたのは晩秋ということもあって、葉っぱは黄色く色付いていました。
それから、こちらの公園には濃飛護國神社が鎮座しております。 せっかくなので、波と狛にはその真ん前で生き狛犬をやってもらいました。
ちょっと焦らしてしまいましたけど、これから大垣城に迫りますよ
西門に続く塀の上に天守が見える景観は、なかなかいいですね だだし、西門は昭和60年(1985年)に建てられた鉄筋コンクリート製(RC構造)の模擬建築で、本来この場所には門は存在しませんでした。
そこをず~っと北に歩いていくと………
今度は、乾(いぬい)櫓と並ぶ天守を仰ぎ見ることができました。乾櫓は昭和42年(1967年)にRC構造ながらも外観はかつて存在した通りに復元したので、こちらはウソではありません。 大垣城は天文4年(1535年)に宮川安定によって築かれたのが最初とも云われています。
その後、この地は交通的にも戦略的にも重要だったこともあって、攻防戦の舞台となり、城主も目まぐるしく代わりました。
さらに北から東側に廻っていったら………
旧内柳門と艮(うしとら)櫓がある一角に行き着きました。 大垣城の東側の入口となっている旧内柳門は、かつて総郭にあった建物をこの場所に移築しました。
一方の艮櫓は、明治以降も残っていたのですけど、昭和20年(1945年)7月の大垣空襲によって焼失。
それから40年後の昭和60年に、RC構造で外観のみ復元されました。
だだし、こちらも後世に造られた入口なので………
私たちは、南側の鉄(くろがね)門跡に向かいました。 かつての大垣城は広大な水堀に囲まれていて、本丸へは二の丸から廊下橋を渡って鉄門に至るのが唯一の通り道でした。
しかし、明治以降にお城のお堀はことごとく埋め立てられ、お城も市街地化の波に飲まれてしまい、遺構はかつての本丸の部分のみに。
さらに公園に面している南側と西側以外は、お城の真ん前まで住宅や商店が迫っています。
そうしたら、いよいよその本丸跡へ
本丸には、慶長元年(1596年)に伊藤祐盛によって建てられ、その後改変されて4層4階となった天守が聳えていました。 4層は死相に繋がるので忌み嫌われたとされていたのですけど、近年になってそれは迷信ではないかと言われています。
5層では大きくて3層では物足りないので、4層ぐらいがちょうどいい
しかし、この天守は昭和20年の大垣空襲で艮櫓とともに焼失してしまいました。
昭和34年(1959年)にRC構造で外観が復元されたのですけど………
ちょっとイメージが違いますね。 最上階の窓はガラス窓の比率が大きく、破風の飾りもなぜか旧状とは違うものが取り付けられていました。
私が学生の頃、いや、社会人になってからも大垣城の天守はこのような姿だったのですけど、平成23年(2011年)の改修工事によって………
外観が戦前の天守により近くなりました。 そろそろその開館時間となるので、波と狛には駐車場の車の中で待機していてもらって、その内部に入っていきましょう
入館料は郷土館と共通で200円。武士の文化や関ヶ原の戦いに関する資料などが展示されていて、その最上階となる4階からは………
北は街のごちゃごちゃした風景ですけど、東には岐阜市の金華山、南は遠くに養老山脈を、さらにはこちらの西からは伊吹山の麓のあたりの関ヶ原方面を臨むことができます。 慶長5年(1600年)9月の関ヶ原の戦いの際には、大垣城は石田三成の拠点となりました。
私の誘導(?)によって、皆さまの気持ちは関ヶ原方面に向かっているでしょうか?
この流れと勢いで、次回の波狛日記はその関ヶ原に迫ります。
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