波と狛のつれづれ日記

日本スピッツ波と狛と、ときどき箔

猪鼻湖畔の古城跡

2018-06-27 01:11:13 | お城
こんばんは、白黒茶々です。
梅雨の真っ最中ということで、季節は着々と真夏に近付きつつありますけど、皆さんはいかがお過ごしでしょうか? 夏といえば海水浴、花火、流しそうめん、……… と、何かと楽しいことを連想しますよね。 しかし、今回の日記のネタを集めたのは夏に入る前のことだったので、せめて浜名湖猪鼻湖の湖畔の風景から、清涼感を味わってくださいませ。



………というちょっと強引な流れで、私と波は浜名湖の北西部の猪鼻湖との境付近にやって来ました。 ちなみに波の後方に見えるのは、浜名湖に浮かぶ無人島の礫島にございます。私たちがこちら方面に来るのは、昨年の夏に猪鼻湖神社やその湖底に沈んでいる戦車のことを探究したとき以来となります。 そこから今回の日記のタイトルの古城跡に走ると思いきや………



ちょっと横道にそれて、浜名湖レイクサイドプラザの隣にある長坂養蜂場というはちみつ屋に立ち寄りました。 こちらのお店では、いろんな種類のはちみつはもちろんのこと、はちみつを使ったラスク、ブレッド、肉味噌、………など、品数も充実しています。さらにそれらを試食することもできて、常にたくさんの客で賑わっています。そういう私は小瓶を持参して、二代目のはちみつを量り売りしてもらいました。
はちみつ屋と古城めぐりのどちらがついでなのか?とにかく、これからこの日の第2章に入らせていただきます。



東名高速道路の三ヶ日ICをそのまま南に直進していくと、浜名湖と猪鼻湖を仕切るような半島を縦断する浜名湖レークサイドウェイに入ります。 さらに、その半島の西岸に2つの岬状のものが、ぽよっぽよっと飛び出しているのがおわかりでしょうか?それらの場所に、猪鼻湖畔の古城こと、佐久城野地城があったのです。私は佐久城のほうは名前だけ知っていたのですけど、野地城の存在はつい最近まで知りませんでした。 そうしたら、せっかく近くまで来たことですし、と一緒にそれらのお城を実地調査してきます。
まずは南側の佐久城からです。浜松市北区三ヶ日町の東急リゾートタウンという別荘地を突き進んでいくと………



その一角に、お城の案内看板が見えてきました。 その手前の駐車スペースに車を止めて、いざ佐久城へ



こちらのお城は、室町時代初期の貞和4年(1348年)に浜名湖北岸を支配していた浜名氏によって、湖に突き出た小高い岬の上に築かれました。ちなみに別名は、浜名城といいます。



その案内看板の脇の石段を上っていったら………



樹木に覆われてはいるのですけど、防御施設の空堀や………



馬出しの土塁が良好な状態で残っていました。佐久城は、石垣や天守などはまだない時代の中世の砦で、土造りの土台の上に掘立ての塀や物見櫓、主殿などが設けられていました。
そうしたら、いよいよ案内看板でいうところの本郭(ほんくるわ)



う~む……… 草がぼーぼーですね。 かき分けていけば、行けないこともないのですけど………



このような「まむし注意」の看板を見てしまったので、どうしても意識してしまいます。 波ちゃが狙われなければいいのですけど、ここまで来たらやはりお城の中心部まで行っておきたいです。ということで、細心の注意を払いつつ………



なんとか城趾碑のところまでやって来ました しかし、本郭跡は公園として整地されたからなのか、その郭を囲う土塁のようなものは見られませんでした。



それでも、そこからは猪鼻湖を臨むことができました。 永禄11年(1568年)の12月に、徳川家康は遠江侵攻を開始。 そのような中で、今川氏の配下の佐久城にも徳川軍は押寄せたのです。城主の浜名頼広は、今川氏のために抵抗したのですけど、翌年の2月に力尽きて降伏してしまいました。



こちらは搦手(からめて=裏口)は、城外に出るルートに繋がっていると思われるのですけど、怪しいので今回は探究するのはやめておきます。
その後、佐久城は徳川氏の城となったのですけど、天正11年(1583年)に野地城が築城されたことによって廃城となりました。………ということで、今からその野地城に向かいます。



野地城の立地は通りから離れたところで、細くて舗装もされていない農道の先にあるみたいなので、私は車を乗り捨てて波だけを連れて歩いていきました。 スマホの地図検索機能のおかげで迷わずに行けそうなのですけど、この段階ではまだお城の気配は全く感じません。
そもそも私は今年の1月に湖北五山めぐりをした際に摩訶耶寺の山門の説明文を読むまで、野地城の存在を知りませんでした。



ハアハア………
しばらく歩いていったら、茂みの中に石碑のようなものがあるのが見えてきましたよ。 もしかしたら、あれが………



そうです 「野地城趾」と刻まれた石碑でした。野地城は天正11(1583)年に本多信俊・上村庄右衛門を奉行として築かれました。江戸時代に入ったあとも存続され、佐久城よりは街道に近いこともあって、家康の鷹狩りや、3代将軍家光の宿所としても利用されました。



石碑から先はこうなっていて、何もなさそうです。しかし、岬の先端に神社があって、さらにその周辺にはお城の土塁が残存しているということが、あとになってからわかりました。あの時、しっかりと調査していれば………



その野地城は、築城から100年近く経った延宝8年(1680年)に幕府から廃城の沙汰が下され、徹底的に破却されてしまいました。そのおかげで、お城の痕跡はほとんど残っていなくて、摩訶耶寺に移築された高麗門形式の城門だけが、かつてのお城の様子を今に伝えています。

今回私と波が訪れた佐久城と野地城の他にも、浜名湖周辺には戦国時代に攻防戦が繰り広げられたお城の跡がたくさんあります。また機会があったら……… できたらまむしが活動的ではない時季に、探究していきたいと思います。


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