波と狛のつれづれ日記

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「我こそは徳川家康なり!」と名乗った夏目吉信

2023-01-18 00:56:13 | 人物伝

こんばんは、白黒茶々です。

大河ドラマの「どうする家康」が始まりましたね その記念すべき第1話が放送された1月8日には、浜松城の大河ドラマ館前の浜松出世パークに徳川家康役の松本潤さん本多忠勝役の山田裕貴さん榊原康政役の杉野遥亮さんらを招いて、出陣式がおこなわれました。 私はその観覧の抽選にはハズれてしまったのですけど、ドラマのほうで見守るようにします。 また、昨年最後の波狛日記で誓ったように、今年は「どうする家康」にあやかった名所旧跡めぐりもするつもりです。 その第1弾というか、今年最初の人物伝として、今回は夏目吉信を採り挙げさせていただきます。

夏目次郎左衛門吉信は、永正14年(1517年)に夏目吉久の子として三河国幡豆郡豊坂村(現在の愛知県額田郡幸田町)で生まれました。 彼の肖像画はなかなかなくて、戦国武将カードみたいなヤツとなってしまいましたけど、勇ましくてカッコいいですね 夏目家は代々、徳川家康の先祖となる松平家に仕える家柄で、吉信も松平元康(のちの徳川家康)に付き従いました。

吉信は、永禄4年(1561年)の長沢城(豊川市)攻めで軍功を上げたのですけど、翌年に板倉重定が守る八幡村城を攻めた際には、今川氏の攻撃で元康方が総崩れに。 そこで吉信は殿(しんがり)を務め、国府まで退却する間に6度踏み止まり、奮戦したと云われています。 後に家康からその時の軍労を賞され、備前長光作の脇差を賜りました。
これは4年半ほど前に、と訪れた三河国分寺跡の画像なのですけど、このあたりに八幡村城があったそうです。

ところが、そのまた翌年の永禄6年(1563年)に起こった三河一向一揆では、吉信は家康から寝返って一揆側に加担したのです 吉信は主君への忠誠より、信仰する一向宗を選んでしまったのですね。 さらに、彼と同じように家康から離反する家臣が続出し、家康は三河が分裂する危機に遭ってしまいました。 この三河一向一揆は、「家康の3大危機」に数えられるほどの出来事となったのですけど、どうする家康
ちなみにこちらの画像は、昨秋に私たちが訪れた岡崎城です。

その後、家康軍の攻撃で一揆側は劣勢となり、ある寺(野羽城六栗城という説も)に籠城していた吉信らは、松平伊忠(これただ)隊に不意に攻め寄せられました。 木戸を突破された後、彼らは金蔵に隠れたのですけど、すぐに包囲されてしまいました。 もはや逃げ道もなく、万事休す

 一方の松平伊忠は攻撃する準備をしつつ、家康の命令が来るのを待っていました。 そうしているうちに届いた指令は「そんな状態で殺(あや)めるなんて、籠の中の鳥を殺すようなもの。もう、助けてやれ」というものでした。 主君がそう言うからには、従うしかありません。 伊忠は兵を退き、その場を立ち去りました。
一度裏切った者にも活路を開いてあげるとは、なんて寛大なのでしょうか 私は家康公のそのようなところが好きです。 吉信は家康に恩義を感じ、一向宗とは手を切って彼に従い、その命を尽くす決意をしました。

箔母さんの父母が眠る三方原墓園の一角には、三方ヶ原古戦場の石碑があります。 元亀3年(1572年)10月に、武田信玄は2万5000の軍勢を率いて甲府を出発し、12月に浜松に至りました。 ところが、徳川家康のいる浜松城は無視し、軍を西に進めていったのです その知らせは家康のもとにも届いたのですけど………

「城下を通過する敵に、一矢も報いず見送ったとあっては、武門の名折れじゃ 」と、家康は撃って出ることにしたのです 近年は、兵糧や物資の中継基地となっていた堀江城(現在の浜名湖パルパルの場所)への攻撃を防ぐためだったという説が有力なのですけど、いずれにしても家康には出陣せざるを得ない事情があったみたいです。 この時の軍勢は、織田の援軍も含めて1万1000。この段階ですでに劣勢のようですけど、戦は必ずしも兵の数で決まるとは限りません。
地の利がある家康は、三方原台地の北側にある祝田坂を駆け上がり、武田軍を背後から突く作戦を採りました。 勝つには、これしかない

ところが信玄にはお見通し……… というか彼の狙い通りで、家康を野戦に誘い出すことに成功したのです 信玄は鉄壁な魚鱗の陣で待ち構えていました。 一方の家康は、こうなったら後には引けず、横一線の鶴翼の陣で立ち向かっていきました。 結果は武田軍が快勝 徳川軍は総崩れとなり、家康は窮地に立たされました。 そこに、浜松城での留守居役を命じられていた夏目吉信が家康の危機を察して、25人の手勢を率いて駆けつけてきました。 「あとは我々が食い止めるので、殿はお逃げくだされ 」という吉信の進言に、家康は「留守居役が出過ぎたマネを、儂は単身で斬り込んで、華々しく散ってやる 」かなりムキになっていたからでしょうか?まったく聞き入れようとはしませんでした。

こうなったら、やむを得ない 吉信は説得を諦め、家康が乗った馬を逆のほうに向け、刀のむねで打って走らせたのです。 その際に、家康の兜を奪い取って被ったとも云われています。 さらに「我こそは徳川家康なり 」と叫んで、25人の手勢とともに武田軍の追っ手に斬り込んでいきました。 家康の身代わりとなった吉信らは、全員討ち死に。 夏目吉信享年55歳。

のちに家康の手によって、吉信の故郷の幸田町の明善寺と、松平家にゆかりのある岡崎市の法蔵寺に彼のお墓が造られました。 ちなみにこちらのお寺は、法蔵寺のほうです。

浜松城の北西の、犀ヶ崖古戦場の近くには………

夏目吉信の忠節を讃える「夏目次郎左衛門吉信旌忠碑」と刻まれた大きな石碑があります。 揮毫は、徳川宗家16代で公爵の徳川家達(いえさと)氏によるもの。 吉信は、このあたりで討ち死にしたと云われています。

それからさらに時を経て、家康は大坂の陣に勝ち、天下を取りました。 その時家康は、不祥事で出奔していた吉信の息子の信次を呼び寄せました。 家康は「今日の儂があるのも、そちの親父のお陰。お主の親父のお陰で天下が取れた」と言って彼の罪と再興を赦し、一緒に出奔していた弟の吉次を徳川2代将軍秀忠の家臣に配しました。 この再興した夏目家の子孫から、明治大正の文豪・夏目漱石が出ています。



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