ひとり座禅のすすめ

自分ひとり、坐禅(靜功)を日常生活の中で取り入れていくと今までと違った感覚を覚えていく。

臍下丹田は何処だろうと思いながら長く息を吐いていた

2012-10-18 08:49:59 | 臍下丹田

 肩の力を抜き真っ暗闇の中で、胡座を組んで静かに出来るだけ長く息を吐きながら、吐く息を体の中へ吐きながら、下腹にあるとされている臍下丹田は、何処だろうと思いながら、ひたすら毎日1時間座り続けていました。

  今は臍下丹田が活性化し、いつも心臓のように鼓動しておりますが、当初は皆目わかりませんでした。

  下腹の臍下丹田があると想定されるあたりに向けて、ひたすら出来るだけ長く息を吐いていました。 時には擬似的に、上斜め上から見て、下腹の何処のあたりにあるのだろうかと思いながら、息を吐いていました。

  そんな風に、上斜めから擬似的に下腹を見ていたある日、突然、自発動を伴いながら下腹の臍下丹田が、心臓のように動き始めたのです。


無心・無欲になれというけれど

2012-10-17 07:56:07 | 座禅

 私は、「ひとり座禅のすすめ」のブログ上で、色々と書いてはおりますが、その殆んどのことは自身の座禅を通して感じた・感得してきたものです。 何か人から教わったとか、本で読んだとかのものではありません。

 生まれて初めて行なった時に、無我夢中に行なってきた我流の逆腹式呼吸を行いながら、静かに1時間座り続けてきた座禅(静功)を通して、感じてきたことを思い出しながら、書いております。

 当時は、まだその時々に起きたことや感じたことを、書き留めて置くことまでは、考えつかなかったのです。

 よく座禅といえば、無心・無欲という言葉を聞きますが、そんなに簡単に、そのような心境になれるものではありません。

 私は、たまたま吐く息を出来るだけ長く吐く息に、吐く息を体の中へ吐き、体の中へ入って行く息を追うようにして、そのことだけに意識を集中してきました。 

 意識を一点に集中することによって、ある意味では「無心・無欲」に近い心境になりうることを知りました。 長く吐く息に集中する方法と、ひたすら数を数える数息法があるようですが、私は数息法は、行ったことがありませんので、よく分かりません。

 長く吐く息だけに意識を集中していても、長い座禅時間の中では、ふと日常的な解決しなければならないような問題が、頭をよぎります。 雑念は払いなさいという言葉をよく聞きますが、私はそのような状態の時(意識が一点に集中しているとき)に、そのことを静かに考えました。 すると不思議なことに、このように考えたらどうですかという宇宙の叡智のサジェスチョンが得られるのです。

 ものの考え方が少しずつですが、その積み重ねの中で形成されていくような気がいたしました。

 寝る前に行ったり、早朝に起きて行ったり、深夜に行ったりしながら、1時間の座禅は、私自身の生活習慣になって行ったのです。


1時間の座禅を継続的に行い崇高な至福感を感得する

2012-10-15 08:52:03 | 座禅

   私がこのブログ上で記述していることは、はじめから分かっていた事は、一つもありません。 全てのことは、無我夢中で我流の逆腹式呼吸を行いながら、1時間の座禅を毎日続けてきた結果、感得してきたことです。

   体の微妙な変化を感じて、その変化を楽しみながら、あれよあれよと体の方が先に変化を起こし、後でこういうことだったのかと、感じてきたことです。

  出来るだけ長く体の中へ吐く呼吸を通して、体の微細な部分までもが静かになってくる45分を過ぎる頃から、脳への刺激も優しくなり、崇高な至福感を与えてくれるようになりました。

 後でこのことを生理的に考えてみると、脳波がβ波からα波になり、時によりα波からθ波になるということです。 θ波になった時には、宇宙の叡智との接触も可能になるのではないかということも感じました。

 たまたまこのブログでは、私の体験を記述しておりますが、決してそれを望むことなく、ひたすら呼吸に意識を集中し、胡座を組んで座っていることが大切なのです。  

 作為を持たず、ひたすら1時間静かに座り、自然の流れに委ね、自然の摂理に従う気持ちを持っていることも大切です。


肺の動きと臍下丹田の動きの生理的な関係は

2012-10-13 11:08:39 | 座禅

 私は、生まれて初めて行なった座禅(静功)を、何も分からぬままに無我夢中で、出来るだけ長く吐く呼吸を行なって、1時間、真っ暗闇の中で座っていました。

  たまたま私自身は、気を感じやすかったのかも知れませんが、初日に、頭のてっぺんにある百会が活性化し、頭全体が電子の輪の帽子を被った状態になったのです。

  また、私に静功の声かけをしてくれた大学の級友が、毎週3日間、静功を行っていて、そのうち1日は24時間行なっているのを横目に見ながら、それでは私は毎日、1時間行なってみようと思ったのです。 また昼間、ちょっとした時間を利用して、目を軽く閉じて長く吐く呼吸を、練習していました。

  電車を待っている間も、電車で座っている時でも、事務所で椅子に座っている時でも、ときには葬儀で弔辞を聴きながらでも、出来るだけ長く吐く呼吸を行なっていました。

  そんなことも幸いしたのか、体はその度に、微妙な変化を感じさせ、座禅を初めて1ヶ月半後には、下腹の臍下丹田が、自発動を通して活性化し、心臓のように鼓動を始めたのです。

  これらのことは、全て体の変化が先で、なんのことやら何も分かりませんでした。 後で、このことは何なのかを本で読んで知ることになったのです。 何も分からず無我夢中で、ひたすら長く吐く呼吸を行なっていただけなのです。

  それらのことを改めて考えてみると、私の我流の逆腹式呼吸は、肺の動きと臍下丹田の動きが、生理的に正しい動きをしていたのではないかと思うのです。

  深呼吸の要領で、胸を拡げて下腹を凹ませながら大きく息を吸い、出来るだけ長くゆっくりと息を吐き、吐く息を体の中の臍下丹田へ向けて吐く、この呼吸法が、空気を吸う肺の呼吸と臍下丹田の気の呼吸と合致しているのではないかと感じるのです。

   息を吸うときには胸は拡がり、下腹は凹んで臍下丹田は気を吐く。 息を吐くときには凹んだ下腹は元に戻り、臍下丹田は気を吸う関係にあるということです。

 私自身は「空」の概念は、素晴らしいものと思っておりますが、肺と丹田から同時に吐き出す考えは、肺の動きと臍下丹田の動きの生理に合わないのではないかと感じております。


30分は肩慣らし45分は本格的な練習が始まる座禅時間

2012-10-11 07:41:10 | 座禅

 私は、生まれて初めて座禅(静功)を始めた時から、たまたま1時間座っています。 自分の体験から、30分は野球で言えば、ピッチャーが肩慣らしをしているという感じです。

  45分は、肩慣らしが終わり、これから本格的な練習が始まるという感じです。 私は1時間座っていますので、15分間の本格的な練習をしたことになります。 本格的な練習時間を、30分行うか1時間行うかは、集中力の問題ですので、自分の判断で行うほかありません。

  私は、当初3時間座り続けてことがありますが、自分の意志さえあれば出来ることです。 現在は1時間しか座ってはいませんが、吐く息を出来るだけ長く吐く逆腹式呼吸であれば、意外と1時間はあっという間に過ぎてしまうものです。 

 あちこちの坐禅会で、初心者用に30分の座禅で済ませてしまっている現状を思うと、ちょっと残念な気がいたします。 はじめが肝心なのです。

  禅宗のお寺では、45分の座禅を、途中に休憩を入れながら、一日10本以上1週間ぐらい続ける修行を行うようですが、これについても、私自身は1時間は行なったほうが、よいのではないかと思っております。


呼吸は無理をしながらも自然の流れを大切に

2012-10-10 08:16:17 | 座禅

  私の我流の逆腹式呼吸は、いつもラジオ体操で行なっていた深呼吸の要領で行います。 大きく吸って、ゆっくり吐く呼吸です。 ちょっと違ってくるのは、吐くときには、限界ギリギリまで吐くことです。 また吐く息は、体の中の下腹にある臍下丹田(一般的はどこにあるか分からないとは思いますが)へ向けて吐きます。

  限界ギリギリまで吐きながらも、吸う,吐くの呼吸のリズムは、出来るだけ自然に流れるように行うことが、大切なのです。 一度、全部息を吐き切ってしまうと、次の息を吸うときに、リズムに乗ることができないのが分かります。

  限界ギリギリのちょっと手前で、息を軽く止め、また大きく息を吸います。 大きく息を吸い、出来るだけ長く、ゆっくりと吐く、吐く息を体の臍下丹田に向けて吐く、そんな吸う、吐く呼吸を繰り返します。

  息が体の中へ入っていくのを、追うようにして、そのことだけに意識を集中します。 吸った息が、喉から胸を通り下腹にいくのを、追うようにして、意識を集中します。 私は、いつも下腹にあるとされている臍下丹田は、どこにあるのだろうかと、探しながら、ひたすら息をゆっくり吐いていました。

  息を途中で止める呼吸法もあるようですが、私自身は、息を途中で止めることが、自然の流れではないと感じていましたので、私自身は行なってはいません。 然しながら、息を途中で止める呼吸法も、否定するものではありません。

  吸う、吐くの呼吸を1回として、1分間に3回行うことを基本に、出来るだけ長く吐くことを、心がけます。 慣れてくれば1分間に2回弱になってくるはずです。

  息を体の中へ出来るだけ長く吐く呼吸に、意識を集中していますと、時間はあっという間に過ぎて行きます。 1時間の座禅は、あっという間です。 

 体の中へ吐く呼吸を通して、体の微妙な変化を感得します。 その微妙な変化を感じながら、座禅が楽しくなってきます。


座禅は型にこだわらず日常性が大切です

2012-10-09 08:17:31 | 座禅

 私は10年近く、普通の胡座で座禅を行なっていました。 両手も法界定印ではなく、膝の上で上下に合わせていました。 肩の力を抜いてリラックスし、上半身は頭のてっぺんが、天から引っ張られるようにして、胡座を組んでいました。

  真っ暗な部屋で、深呼吸の要領で、大きく息を吸ってゆっくりと,出来るだけ長く吐く呼吸を行なっていました。 大きく息を吸うときには、胸は拡げ下腹は凹みます。 

  吐く息は、何となく体の中へ吐いていました。 極真空手の創始者の大山倍達の自伝映画「空手バカ一」を見ていて、演舞で行なっていた呼吸法を思い出したのです。 吐く息音が聴こえるような呼吸法でした。

  私は出来るだけ長く吐く息を、体の中へ吐いていました。 下腹にあるとされていた臍下丹田が、どこにあるのだろうと探し求めながら、吐く息が体の中へ入っていくのを、追うようにして、そのことだけに意識を集中していました。

  このように意識を一点に集中して座っていますと、殆ど雑念が沸く余地がなく、1時間の座禅もあっという間に、過ぎていきました。

  当初、私は友人の彼女(女性という意味)のガンに侵された体の回復を願い、3時間座り続けてもいました。

  私が現在の変則的な半跏趺坐になったのも、こんなにも素晴らしい座禅を、毎日行なっている坐禅会はあるだろうかと、禅宗のネットで検索し、近くの臨済宗のお寺に参禅したときです。

  和尚さんから普通の胡座を注意され、何故、結跏趺坐が良いのだろうと、座禅の雑念が考えたのです。 私の結論は、結跏趺坐は足裏を上に向けますが、足裏は宇宙の気を吸いやすく、自分と宇宙が一体的になる感覚が、得られやすいのです。

  私は高校時代のクラブ活動で、右膝を不完全骨折し、それ以来、右膝を悪くして、きちんと結跏趺坐が組めないのです。

  私に座禅(静功)の声かけをしてくれた大学の級友は、1週間のうち3日行い、そのうち1日は24時間行なっていました。 私は、それでは自宅で毎日、行ってみようと思いました。

  初めから1時間、座っていたので、それが当たり前になっていますが、いま考えてみると、1時間以上というのが大切だと、改めて感じます。

  体の中へ出来るだけ長く吐く我流の逆腹式呼吸は、体の中の経絡を刺激しますので、続けていくと体に微妙な変化を与えるのです。 経絡は神経の腺に沿って流れていますので、特に微細な神経細胞がある脳を刺激します。

  はじめは堅く感じ、時間の経過とともに、次第に優しく刺激するようになります。 45分を過ぎる頃から、より優しく刺激するようになります。 1時間する頃になりますと、セクシャルなエクスタシーをはるかに超える、崇高な至福感を感得できるのです。

  私の呼吸法は、一般的な順腹式呼吸(丹田呼吸)とは違います。 私の我流の逆腹式呼吸は、肺の動きと丹田の動きの生理から考えて、自然の動きではないかと考えています。

  肺で息を吸うときには、臍下丹田では気を吐き、肺で息を吐くときには、臍下丹田では気を吸う関係にあると考えています。

  一般的順腹式呼吸は、肺で息を吐くときに、同時に臍下丹田から気を吐きます。 肺で息を吸うときには、同時に臍下丹田で気を吸うという考え方です。

  何年間に何時間座禅を行なったということは、重要ではなく、如何に日常的に、毎日行うかが大切ではないかと、思っております。 生活習慣の中に、座禅を組み入れてしまうことが、大切ではありませんか。

  私は、座禅を苦しく思ったことはありません。 体の微妙な変化を楽しみながら行なってきた結果、座禅は楽しいもので、なおかつ素晴らしいものだと思っています。 

   無理をしながらも決して無理をせず、自然の流れを大切にする気持ちを、いつも持っていることが、とても大切なことのように感じています。


こんな素晴らしい座禅を皆に伝えたら良いかが私の雑念

2012-10-07 06:56:55 | 座禅

 毎日、深夜の1時間の座禅を行うときに、ふと浮かぶ私の雑念は、いつも、このような素晴らしい座禅の良さを、みんなにどのように伝えたら良いだろうかと、考えるのが私の雑念です。

  思いつくと、座禅の途中でも考えたことを、スマホのスケジュール欄に、インプットしておきます。 そうしないと、座禅が終わる頃には、なんだっけと、いつも忘れてしまうことが多いからなのです。


薬も一時的な痛み止めや化膿止めには良いのですが

2012-10-06 08:06:07 | 

 私は、薬の服用は、一時的な痛み止めや化膿止めには服用しますが、長い間、使用したことがありません。 何故か。 それは、薬の服用が、根本的な治療にはならないと、感じているからです。

  私たちは、子供の頃から、病に罹った時に、何故、その病に罹ったという根本的な考え方をせずに、とりあえず何とかしましょうと、対症療法に終始してきました。

  従って多くの方が、安易に薬の服用を行なってしまうのです。 

  私の親しくしている友人も、ご多分にもれず、血圧と糖尿の薬を、長期間、服用し続けています。 友人には、根本的に治すには、先ず歩くことから始めたほうが良いのでは、と話すのですが、一時的に体を動かすことがあっても、なかなか実践できていません。

  その人の体は、その人自身しか治すことは出来ないのです。 原因が明確でないのなら、仕方がありませんが、友人の場合は、明らかなのですから、自分の意志さえあれば、出来るはずなのです。

  自宅の周りで花を愛でている石合正治さんは、仕事のコミュニケーションを良くしようと、毎日のように飲食を繰り返した15年前の、サイクリングで東北地方に行った時の写真集を、見せてもらいましたが、本人には、随分とぷっくりしていましたね、今の姿のほうが、すっきりと抜けた感じがして、いいですね、と話しました。

  すると、石合さんは、お医者さんから、すぐに薬の服用を勧められたそうですが、きっぱり断り、自分で直しますと答えたそうです。 それ以来、自分なりに体を動かすことを続け、今では全ての体の数値が、クリアーされてきていると話してくれました。

  私も、数値がオーバーしている数が少しの時には、甘く考えていたのですが、その数字が多くなった時に、これではまずいと感じ、一念発起して朝歩きを始めたのです。 

 最近では、夕御飯を軽く食べてから、すぐ寝てしまっていたのを反省し、夕食は食べずに寝ることにしています。 何しろ午後7時には寝てしまうものですから。 南雲吉則さんの一日一食を参考に、お腹が減ってグーとなってから、食事をするように心がけようとしております。


うつ病に罹った仕事仲間の様子を聞きに行って

2012-10-05 07:51:57 | 

 メールや携帯電話で連絡しても、ウンともスンともない仕事仲間の様子を聞きに、自宅まで行ってきました。 話しをする様子は、病に罹った感じはありませんでした。

  事務所に戻って、改めて「うつ病」について、ネットで検索をしてみました。 私は、いつも友人知人が病に罹ったときには、必ずどんな病気なのかを知るために、調べることにしています。

  脳内の伝達物質が十分に働くなり、情報が伝達されない病であることを知りました。 

  仲間の話によると20年前ぐらいから、年に1度ぐらい、うつ病になるということでした。 時として3ヶ月間、続くこともあるというのです。 私の友人は、うつ病になり、うつ病を勉強することによって、うつ病を克服したということを彼の偲ぶ会で、別の友人が話したのを思い出します。 

 私は、ふと深夜の1時間の座禅の時に、上記のことが雑念として浮かんだのです。 

 我流の逆腹式呼吸によって、宇宙の清新なエネルギーを、気の通る道である経絡に取り入れ、経絡に絡み合うよに流れる神経の腺、特に微細な神経の腺が集中する脳を刺激し、脳の働きを正常に働くようにするのではないかとと、いつも静かに座禅を行いながら、感じ思うのです。