10年ほど前に、大学の級友からの声かけで始めた座禅。 今まで座禅(静功)には、あまり関心はなかったのですが、当時心臓付近に、なんとなく違和感を感じていて、知り合いの看護婦さんから、足の付け根からカテーテルを挿入して、心臓を調べる必要を聞いたりしていました。
座禅を始めた初日(真っ暗な中で1時間の座禅)に、頭のてっぺんにある百会を中心にして、頭の廻りが電子の輪のようなものを、感じてしまいました。 今、思い出しても何故、当初から吐く息を体の中へ吐く、逆腹式呼吸を行っていたのか、思い出すことは出来ません。 指導している方から、話を聞いたわけではありません。
1週間に1度の座禅会に参加して、真っ暗闇の中で、私の体の中へ吐く息だけが聞こえたらしく、3回目が終わった後で、友人が、もう少し静かにして座禅をやりなさい、と注意したほどでした。
お臍のちょっと下にある臍下丹田が、心臓のように鼓動を始めたのは、1ヶ月半ぐらいでした。 当時、前の事務所の前の席にいた後輩の女性(我が家からヒマラヤンの雌の子猫が貰われていったので、ある意味では親戚関係ではある)が、ガンに冒され、仕事をしながらの闘病生活をしているのを聞き、お見舞いに行くと共に、遠くから毎日深夜、3時間の座禅の中で、彼女の無事を念じたものでした。
座禅をするようになってから、何が変わったかといいますと、いつも、どんな時でも、肩の力を抜いているように、心がけるようになりました。 夢中で人と話しているときでも、ふと気がつくと肩に力が入っていたりします。 そんなときは、肩を振って力を抜くようにしました。
また、何事も構えずに、自然体で望むようになりました。 どんなにあがいてみても、物事はなるようにしかなりません。 原因があって、結果がある。 そんなことも、自然に受け入れられるようになりました。
どんな環境下にあっても、いつもそれを楽しむ気持ちが、とても大切ではないかということも、感じます。 良い時もあれば、悪いときもあります。 その時々の環境を、甘んじて楽しむ、いつもそんな気持ちで、いられるようになれたことには、感謝の気持ちでいっぱいです。 自分が思うように、体の中の気は動きます。 いつも明るく、前向きに、建設的にものを考える癖も、自然とついていってしまったようにも思います。
座禅を始めた初日(真っ暗な中で1時間の座禅)に、頭のてっぺんにある百会を中心にして、頭の廻りが電子の輪のようなものを、感じてしまいました。 今、思い出しても何故、当初から吐く息を体の中へ吐く、逆腹式呼吸を行っていたのか、思い出すことは出来ません。 指導している方から、話を聞いたわけではありません。
1週間に1度の座禅会に参加して、真っ暗闇の中で、私の体の中へ吐く息だけが聞こえたらしく、3回目が終わった後で、友人が、もう少し静かにして座禅をやりなさい、と注意したほどでした。
お臍のちょっと下にある臍下丹田が、心臓のように鼓動を始めたのは、1ヶ月半ぐらいでした。 当時、前の事務所の前の席にいた後輩の女性(我が家からヒマラヤンの雌の子猫が貰われていったので、ある意味では親戚関係ではある)が、ガンに冒され、仕事をしながらの闘病生活をしているのを聞き、お見舞いに行くと共に、遠くから毎日深夜、3時間の座禅の中で、彼女の無事を念じたものでした。
座禅をするようになってから、何が変わったかといいますと、いつも、どんな時でも、肩の力を抜いているように、心がけるようになりました。 夢中で人と話しているときでも、ふと気がつくと肩に力が入っていたりします。 そんなときは、肩を振って力を抜くようにしました。
また、何事も構えずに、自然体で望むようになりました。 どんなにあがいてみても、物事はなるようにしかなりません。 原因があって、結果がある。 そんなことも、自然に受け入れられるようになりました。
どんな環境下にあっても、いつもそれを楽しむ気持ちが、とても大切ではないかということも、感じます。 良い時もあれば、悪いときもあります。 その時々の環境を、甘んじて楽しむ、いつもそんな気持ちで、いられるようになれたことには、感謝の気持ちでいっぱいです。 自分が思うように、体の中の気は動きます。 いつも明るく、前向きに、建設的にものを考える癖も、自然とついていってしまったようにも思います。