日本の建物づくりでは、「壁」は「自由な」存在だった-5・・・・僅かな事例で、何故言えるのか?

2010-06-22 12:32:47 | 「壁」は「自由」な存在だった
[註記追加 23日 19.09]

今回は「椎名家」を観ながら、僅かな事例を基に、なぜ私が「壁は自由な存在だった」と言うのか、について書きます。

「椎名家」は、墨書から、1674年(延宝2年)に建てられた、東日本に遺っている住居では最も古い事例、と考えられています。
上の写真は、復元後の南面外観、最近の写真です(春先に紹介しました:http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/61c44e1638e29cfe4e2b053b8cb1bbe9
ついでに下記も
http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/7d5edd7015edb1e8244b42314b96b780)。
そして下の写真は、川島宙次氏が「滅びゆく民家」の中で紹介されている復元前の南面です。





南面に関するかぎり、壁と開口の位置はほとんど変化が見られませんが、同じく同書で川島氏が紹介している復元修理前の平面図と復元された建物の平面図とを比べると、北面、西面、そして「ざしき」と「ねま」(「まえのへや」「へや」)の間仕切はかなり変っている、壁が開口になっていることが分ります。
   註 「まえのへや」「へや」「ちゃのま」・・などは、復元される前、家人が呼んでいた室名です。
    

次の図は、解体調査の結果、当初と考えられる姿に復元された建物の平面図、断面図です。



「椎名家」が解体調査・復元されたのは、昭和46年(1971年)ですから、その時まででも、建設から297年経っています。先の川島氏のスケッチは、多分、1960年代の平面です。
解体調査で、架構そのものには変更が見られない、つまり、当初のままの架構で、柱間に充填されるのが壁か開口装置か、それによって暮しの変化に対応してきたことになります。
架構の様子は、春先の記事でも紹介していますので、ここでは簡単な紹介にします。



すなわち、他の例で観てきたように、ここでも「壁は自由な存在」だったのであり、架構上の「必需品」:「触ること、動かすことができない部分」ではなかった、つまり、「自由に扱えた」のです。

なお、近世:江戸期の住居とは著しくおもむきを異にする中世に建てられた「古井家」「箱木家」では、「壁は自由な存在」であることが、より一層明白に現われていることを、すでに触れましたから(下記)、ここではあえて書きません。

http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/e651c40f220d2da30602d8d0c982505e
http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/cd2a1a40d53baed2a1e84284100d0cdc
http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/bb23e82075dbdafee1b6cf0233f83c2c

では、どうしてこれらの建物は、「壁」を架構上の必需品としないで済んでいるのか(これは、現在の「木造軸組工法の構造理論」とは、まったく対極に位置する考え方:つくりかたです)、これについて、次回に私の「理解」を書くつもりです。

しかしその前に、このブログを読まれる方のなかには、
1)「壁が自由な存在だった事例」だけを「私が選んで紹介している」と思われる方
  あるいは、
2)「壁を自由な存在として扱い、今も健在な事例」は「ほんの僅かしかない」と思われる方
  もあるかもしれません。
  そして、
3)「僅かな事例」を基に「壁は自由な存在だったと断言する」のは怪しからぬ
  と思われる方もおられるでしょう。

そこで、その点について、ここで触れておくことにします。

先ず1)について
特に選んでいるわけでは、もちろんありません。
現在知り得る資料(重要文化財等に指定され、詳細なデータを知り得る木造軸組事例の資料)を基にしているだけで、むしろ、そのすべてが「壁は自由な存在として考えている」と見て、まったく問題がない、と言えるでしょう。
私が「選んでいる」とすれば、その建物の「変遷」すなわち「竣工以来の改修・改造の実際が分る資料・記録がある事例」を「選んでいる」だけです。そこから、「柱間をどのように考えて扱っていたか」が読み取れるからです。

2)について
1)で、現在遺されている木造軸組事例は(「住居」に限りません)、すべてが「壁は自由な存在として考えている」と見て、まったく問題がない、と記しました。
それは、すべてにおいて、柱間部分の「変更」が「自由に」行なわれている、と見ることができるからです。すなわち、「柱間部分を変更不能と考えている事例が見当たらない」のです。

現在遺されている事例数は、たしかに少なく、それをはるかに上回る数の事例が消失・喪失しているのは事実です。
しかし、遺されている事例が「壁は自由な存在として考えている」と見なせる以上、消失・喪失した事例もまた「壁は自由な存在として考えている」と見なすのが、ごく自然な道筋ではないか、と私は考えています。

そしてまた、もちろん、消失・喪失してしまった事例は、単に、架構上の欠陥等に拠って消失・喪失したわけでもありません。
また、遺されている事例も、偶然、たまたま遺ったのではなく、「遺されるべくして遺った」と考えるのが「理」である、と私は思っています。なぜなら、人びとは、《偉い人たち》が思うほど、愚かではないからです。

3)について
たしかに「資料数」:「遺されている事例」数は僅かです。
しかし、「遺されている事例」は決して「特殊なものではない」ことは、それぞれの内容:つくりかた:を見れば明らかです(どの事例も、「手慣れた」手法・技法でつくられていることは、すでに観てきたとおりです)。

ということは、「遺されている事例」の「背後」には、「同様の考え方によりつくられた事例が、数多く存在している」、つまり、「そういう考え方はあたりまえだった」と考えられることになります。
私は、このように考えるのが、これも論理的にごく自然な道筋だ、と考えています。


私はむしろ、「僅かな数の実物大実験」を基に、「基準」をつくろう、などと考える方がナンセンス( nonsense )、すなわち、「理」「筋」の通らない考え方だと思っています。

なぜなら、その実物大の試験体が、「背後」に「共通の(common と言える)考え方」を内包しているものである、という「保証」がないからです。

これまでの例で、そういう「保証」を示した上で行われた「実験」があったでしょうか?
その「保証」が示されない以上、それは「恣意的な」実験にほかなりません。
実際、これまでの「実験結果」の扱い方を見れば、それら「実験」が「為にする」ものであることは明らかです。

一方、「歴史的な資料」は、その「背後」に、それぞれの時代の「共通の(common と言える)考え方」を内包しています。
つまり、「歴史的な資料」は、単に「古いもの」「過去のもの」、もちろん、「現在にとって無意味なもの」なのではなく、
まったく逆に、
常に「各時代の、人びとの共通の(common と言える)考え方」を内包した、その意味ではきわめて優れた「試験体」なのです。

   註 さらに言えば、各時代の諸事例は、相互に無関係ではなく、常に、前代を「継承」している、
      という「厳然たる事実」を認識する必要があるでしょう。
      もちろんそれは単に「形式」を倣っているのではなく、「考え方」を倣っているのであって、
      だからこそ、その内容:具体的方法・仕様:が、用に応じて変容するのです。
      つまり、同じ環境に暮す限り、人びとは、常に自ら考える、そして、考えることは、各時代共通だ、
      ということです。[註記追加 23日 19.09]

したがって、「歴史」は、e-ディフェンスよりも数等すぐれた「実験施設」にほかなりません。

「歴史的資料」を、単なる「趣味」や「観光」の対象と見なしてしまっては、それらの「事例」をつくり上げた人々に対して、きわめて失礼だ、と私は考えます。
「文化財」を「遺す」ということの「意味」を、あらためて考えたいと思います。

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