日本の建物づくりでは、「壁」は「自由な」存在だった-3・・・・「開けっぴろげ」は人びとの願望

2010-06-14 17:23:23 | 「壁」は「自由」な存在だった
[註記追加 15日 8.39]



これは、先回の「龍吟庵 方丈(りょうぎんあん ほうじょう)」と同じ塔頭(たっちゅう)の建物。京都・大徳寺の塔頭「大仙院 本堂」です(大徳寺には、20を越える塔頭があります)。ここでは「方丈」ではなく「本堂」と呼ぶようです。
「大仙院」は、大徳寺の塔頭の中では最古と言われ、「龍吟庵」より85年ほど経った1513年に建立されたことが分っています。

次の図が平面図です。


この建物も、平面図を見ていただければ分りますが、壁と言える壁は、建物北側の仏壇が安置される室:「真前」の北側の幅1間半の壁だけ。この壁は仏壇の背面ですから、なくすわけにはゆかないのです。
この建物の基準柱間は6尺5寸。柱寸法は、広縁外側を除き、5寸弱角です。
ただ、「室中」の正面の柱間は1間半。

「龍吟庵」にしろ「大仙院」にしろ、なぜ、ほとんどの外壁、間仕切を建具にするのか。

これは、後の客殿も書院造も、そして武家の住居にも、商家の住居にも、もちろん農家の住居にも言えることですが、
「開けられるような状況ならば、開けられる所はすべて開けたい」
これが、当時の人びと、それは上層階級、一般を問わない、すべての人びとの「願望」だったのです。

「開けられる」状況とはどういう状況か。
大分前に触れましたが、それは、「屋敷」を囲うことのできる、そういう状況。
塀なり垣なりによって囲まれた空間が確保できれば、あるいは、ここは自分(たち)だけの空間と思えるような空間・場所が確保できたと思えれば、「建屋」だけが居所ではなくなり、その囲まれた空間すべてが「住まい」:「自分の居所」となる。そうできるような状況です。
そして、そういう状況下では、「建屋のすべてを開けっぴろげにする」ことが「願望」だった。

なぜなら、そうすることが、今の用語で言えば、最高の「空気調和:エア・コンディショニング」だったからです。暮しやすい環境確保のための最高の手だてだった。
だから、そうできるように懸命になって工夫した。そうしても、建屋が自立できるように工夫した。
だから、そういう建屋が、数百年も健在なのです。

   註 このあたりのことについては、いろいろな所で触れてきました。
      たとえば、建物づくりの原型:住居とは何か:については
      http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/4144be4e6c9410282a4cae463e3d42a3
      これは3年前の記事です。
      「屋根がある所だけが住まいではない」、ということについては     
      http://blog.goo.ne.jp/gooogami/e/96fa99810f1b340e57b5b01db1b38e7b [註記追加 15日 8.39]   

この建物の断面図は以下のとおりです。
今回は、編集する手間を省いてしまったので、平面図、桁行断面図、梁行断面図の縮尺がそれぞれ異なります。恐縮ですが、棒尺を参考にご覧ください。



「龍吟庵」よりは、85年分少ないだけで、当然大地震に遭っています。

では、なぜ、このような開けっぴろげの建屋が500年近く、健在であり得たのか。
もちろん、何回も修理をしていますが、一度として、倒壊寸前というような状態にはなったことはありません。そういう記録はないのです。

健在である、というのは厳然たる「事実」です。
なぜ、開けっぴろげで健在であり得たのか、「龍吟庵」と並べて考えてみませんか。頭に刻み込まれてしまっている《知見》を一旦棚上げにして・・・。商店だって、定期的に「店卸し」をするのですから・・・。

なお、大徳寺の塔頭は、すべて開けっぴろげの建屋です。

  図は「日本建築史基礎資料集成 十六 書院Ⅰ」、写真は「原色 日本の美術」(講談社)より。

この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ちょっと休憩・・・・学・研... | トップ | 日本の建物づくりでは、「壁... »
最新の画像もっと見る

「壁」は「自由」な存在だった」カテゴリの最新記事