日本の建物づくりを支えてきた技術-32・・・・継手・仕口(16):近世には・・

2009-04-20 09:56:17 | 日本の建物づくりを支えてきた技術

三月いっぱいにまとめる話が、先週末に、ようやく落着。

さて、「継手・仕口」の話の続き。
先回は江戸時代までくると、「シャチ栓」を使う継手・仕口が増えてくることを紹介しました。

今回は、以前にも載せましたが、江戸時代も末、天保年間:1830~40年頃の建設と言われ、竣工直後に「安政の大地震」に遭ったはずの奈良県橿原市今井町の商家:「高木家」の架構法を紹介します。
この例は、日本建築学会編の教科書「構造用教材」に「伝統工法」の例として載っているくらいですから、その筋の学者先生方も無視するわけにはゆかない建物なのだ、と思います。

それはともかく、この建物の架構は、実に明快にして明解。
この建物の直ぐ近く、300mほど離れた場所に、これも以前紹介した「豊田家」があります。
両家は、ほぼ同規模の商家ですが、こちらは寛文2年:1662年の建設ということが分っています。この建物も「安政の大地震」を経てなお健在です。

この二つの建物は、建設時期に約180年の隔たりがあることになります。
ですから、両者を見比べると、その間の「技術」の推移の様態が分る絶好の現場なのです。一日で、しかも同じ町内で見比べられるなんていうのは、滅多にありません。

そして、この二つの建物では、まさに「シャチ栓」が主役。主要な「仕口」はすべて「シャチ栓継ぎ」なのです。

今回は、「高木家」の「当初復元平面図」と調査で分った「架構図」と、主要な「仕口」図を載せます。図は「日本の民家」(学研)および「高木家住宅修理工事報告書」(奈良県)が出所です。
上の「仕口図」は、「架構図」で「黄色に塗った通り」の「差鴨居の仕口分解図」、下は同じく「緑に塗った通り」の「根太受けの仕口分解図」です。

[恐縮ですが、図の部分をプリントして、それを片手にお読みください]


「高木家」は総二階建て(一部吹き抜け:どま)の建物ですが、その架構は、現在の二階建ての方法とは大きく違います。

平面図で分るように、一階と二階の平面:間仕切位置はほとんど同じです。そして、建物の四隅と間仕切の交点に「通し柱」が立ち、「通し柱」~「通し柱」には、「差鴨居」が組まれます。
そして、二階の床は、この「差鴨居」上の「束柱」で支えられた「根太受け」が根太を受け、床を張る、という手順で組まれています。

そのうちの「六」通り(黄色に塗った柱列)の「差鴨居」の分解図と、「ほ」通り(緑色にぬった列)の「根太受け」(今なら「床梁」「二階梁」とでも言うでしょう)の分解図が上の図です。

この方法は、「束柱」で支えた「大引」で根太を受ける一階床に似たやりかたを、「差鴨居」上でやっている、と考えてもよく、言うならば「根太受け」は一階床の「大引」にあたる材、そこで、ここでは「根太受け」という名で書いたのです。ただ距離が跳ぶので丈が6寸~7寸ほどになっています。

この建物で特徴的なのが、柱は「通し柱」も「管柱」も、すべて、4寸2分角(12.7cm)であることです。いわゆる「大黒柱」がない。
当初の柱がすべて残っていて、柱総数61本、そううちの32本が「通し柱」(ということは柱の半分以上が通し柱ということです!)、18本が「管柱」(1階だけ、または2階だけの柱)、11本が「庇柱」(庇支持用の柱)とのこと。
北面の「庇柱」は3寸6分角、南の通りに面する「庇柱」は主柱と同寸の4寸2分角を使っています。

柱は、東西両側の通り(「い」「る」)と「り」通りでは5寸角のヒノキの「土台」の上に立ち、南北面では「礎石建て」、「土台」のように見えるのは「地覆(ぢふく)」です。

なお、「土台」の「継手」は「腰掛け鎌継ぎ」、「土台」に立つ「柱」は「長枘差し」です。

さて、「差鴨居」と「通し柱」の取付きに使われているのが「シャチ(栓)継ぎ」です。「竿シャチ継ぎ」と言うのが正式名です。柱を貫通して相手側に差す長い「枘」を「竿」と呼んでいますが、この建物では、一材からつくりだしています。こういう場合を「本竿」と言うようです。

今回は詳しく触れませんが、細部の刻みも、非常によく考えられた仕事がされています。つまり、ただ彫ればいい、という仕事ではなく、それぞれの刻みに「意味」があるのです(報告書に「刻み」部分の詳細実測図があるので、次回に紹介を予定しています)。

二階床の「根太受け」は、「二」通りから「二〇」通りまで、同じ高さで一列に連なっていますが、「六」通りと「一四」通りの「差鴨居」上の「束柱」の真上で継いでいて、「目違い付き鎌継ぎ」を使っています。
その場合、「下木」側を「束柱」が受け、その「下木」に「上木」が落される形をとっています。「腰掛け」を設けていないのは、下から「束柱」が受けているからで、「目違い」を設けたのは、「上木」の側の材の下部が、「下木」からはずれて捩れることを嫌ったからです。
ということは、単に、継承されてきた「仕口」の「形」を刻んでいるのではなく、常に「理由」を考えて刻んでいる、ということです。どう継ぐか、どう取付けるのが最上か、場所・部位ごとに、そこで何が起きるか、何を考えておかなければならないか、考えているのです。

常に「理由」を考えながら仕事をする、まさにこの点こそ、現在の多くの「技術者」が忘れてしまった「技術の本質」なのではないかと、私は思います。
今の「技術者」の中には、金物が付いていればいいや、で済ませてしまい、何のための金物なのか、考えない人がたくさんいます。
その極めつけは、大方の確認審査を担当する「技術者!」の方々です。そして、それに唯々諾々としてしたがう「建築家」の方々です。

「高木家」は、「浄土寺・浄土堂」「東大寺・南大門」などと同じく、すごいなぁ、と、私がいつも思う建物の一つです。

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