[文言追加 8.20][註記追加 9.49]
多雨の地域にあるわが国は、世界の中でも樹木がよく育つ地域であることは、今さら言うまでもありません。
しかし、その事実を「実感」として持っているかというと、かならずしもそうではありません。あたりまえすぎて気が付かないのです。
それを「実感」するために、先回、西安と日本の降雨量を比較してみました。
データを付け加えると、西安の西500kmの蘭州では、さらに雨が降らず年間降雨量は317.0mm、そこからさらに900km西北に敦煌がありますが、そこはもうタクラマカン砂漠の東端で、たしか年間降雨量は100mm以下だったように記憶しています(30mm程度だったかもしれません)。
註 日本での距離感をはるかに逸脱した距離です!
西域の砂漠の中に、朽ち果てた木の柱が立ち並んだ遺跡の映像を見たことがあると思いますが、あれは、かつて水が湧き出していた低地(盆地):オアシス中心に栄えた町の遺構。そしてあの木柱は、朽ちているのではなく風化したもの。
オアシスに水がなくなってから、腐朽には縁がない地域となり、町の遺構の木は腐らないのです。その代わり、砂嵐でまさに「風化」したのです。
別な見方をすれば、手近に樹木があるならば、人は、一番扱いやすい木で建物をつくる、ということの証でもあります。
日本でも、降雨量は土地によって違い、多いところでは年間4000mmに近いところがあります(三重県・尾鷲:3922mm)。ちなみに、最近30年間で、年間降雨量1000mm以下の場所は、少ない方から網走:801.9、長野:901.2、帯広:920.4です。長野県でも松本は1018.5です。古代の中心、奈良、京都は降水量のいわば平均的な地域だ、ということができます。
木で建物をつくる場合、どの地域でも最初は「掘立て式」でつくります。
上掲の上段の図版は、「竪穴住居」の想定工程で、番号順に仕事が進みます。多分、世界中どこでも同じようなものだと思います(図は「日本住宅史図集」より)。
しかし、建ってからあとは、地域によって大きく違います。日本では、「掘立て」の柱は、すぐに腐りだすはずです。
上掲中段の左から2番目の写真は、4・5年ほど前に私がつくった生垣の支柱。
直径10cmほどのスギの防腐剤塗布済の丸太。30cmほど地中に埋めてあったのですが、グラグラしてきたので撤去したものです。これはまだいい方で、地面のあたりで折れてしまったものもありました。地中の部分は、腐り切って土と化してなくなっていたのです。
防腐剤は頻繁に塗り直さなければ効き目がない、といういい見本。
註 防腐剤を塗布しても、その後点検できないのが現在普通の仕事。
その左の写真は、平城宮跡から見付かった「掘立て柱」の根元。これは腐らずに残っています。1000年以上前のもの。縄文期の掘立て柱の柱根も各地で地中から見付かっています。
このことは、「木が腐るとはどういうことか」を如実に物語っています。
木が腐るという現象は、現在では、腐食菌が木の組織を食料にするからである、ということが分っています。そして、腐食菌は、一定の水分と酸素がなければ生きられません。そのため、地中や水中では、酸素が足りず腐食菌は生きられない、それゆえ、地中深くでは、数千年経っても腐らないのです。生垣の支柱も、もっと深く埋められていれば、深いところは腐らなかったでしょう。
かつて、軟弱地盤の土地の基礎工事に松杭が使われたのはそのためです。旧帝国ホテルにも使われていましたが、地下水位が下がり、腐ってしまい、不同沈下の原因になりました。
こういう「科学的な理屈」を知らなくても、いにしえの人びとは、地面すれすれのあたりで木が腐ってしまうことを知っていました。地面に近いところは、湿気が多く、また雨もよくあたりますから、どうしても腐りやすいのです。
このことを、いにしえの人びとは、「理屈」でではなく、「身をもって」知っていました(残念ながら、今の大方の人びとは、「身をもって知る」ことをせず、「理屈」がないと信用しません)。
そして柱脚の腐食を避ける方法として、柱を地面から遠ざけて立てる方法へ移行します。それが「礎石建て」方式です。
註 建替えるとき、以前の柱脚部は、地中に埋め殺しにします。
それゆえ、地中に遺構が残っているのです。
けれども、むかしの人びとは、「礎石建て」になって柱脚の腐食の問題は解決した、とは思っていません。
礎石の上に立てても、また礎石まわりの水はけをよくしても、柱脚は腐りやすい場所だと考えていました。
上掲中段の右側2列の写真と図は、法隆寺の建物の礎石ですが、礎石中心にあけた柱のダボ穴に水が溜まるのを避けるため、水抜き溝を彫っています。また、より「水切り」をよくするため、下の礎石では、石を2段に彫って座をつくってあります。いかに柱脚部を水から護るか、腐心したのです。
註 図にある礎石の形状は、多分、現在の構造設計者の想定外のはず。
今なら、底面を平らにするでしょう。
耐力面積だけを考えるからです。
しかし、この形状は、「現場」で生まれたもの。
据えるとき、きわめて容易に安定の状態になるからです。
なぜ据えやすいか、それは、実際にやってみればわかります。
上掲下段の写真と図は、浄土寺・浄土堂の柱に施されている「細工」を示しています。
礎石は単に平らに加工した石ですが、写真のように、柱の底に十文字に溝(幅9~12mm、深さ3~9mm程度)が彫ってあり、通気・換気孔と考えられています。堂内になる部分の柱にも刻まれていますから、柱脚部の湿気を気にしているのです。
地面に埋められた石は常に地温になっています。そこに湿った空気が来れば、気温によっては結露します。夏の朝など、雨が降った形跡もないのに、舗装道路が濡れていることがありますが、それと同じです。
多分、そういう現象が生じるのを知っていて、こういう策を講じたのだと思われます。石の方に溝をつくらず、木の方につくったのは、仕事が容易だからだと思います。
しかし、このような工夫をしても、写真の一番左の柱のように、柱底が腐食することが起きるのです。
また、図のように、柱に取り付く「貫」の孔にも、溝(幅9~12mm、深さ3~9mm、奥行は貫を通す孔では150~180mm、大入孔では大入れの深さ分)が彫られています。これも、通気・換気孔ではないか、と考えられています。
木材は、小口:断面が湿気を吸いやすいので、これは、小口からの湿気の侵入を警戒したのではないでしょうか。
浄土寺・浄土堂は、12世紀末の建物、「礎石建て」が主になってから、1000年以上経っています。と言うことは、人びとは、礎石建てになっても、ずっと、木材に無用な湿気は厳禁、と考えていたことになります。
この考えは、近世になっても変りないのです。
そして、腐りやすい柱脚だけを、修理・取替える方法:「根継ぎ」の手法:まで編み出すのです。そうすれば、柱脚だけ腐った柱を、全取替えせずに済むからです。法隆寺に行くと、回廊だけでも多数の「根継ぎ」をした柱を目にすることができます。
考え方が変ってしまったのは、「科学の発達」した近代以降です。
「布基礎」で木部の位置を高めて、水から遠ざけようとした。たしかに地面から遠くはなったけれども、そのとき、床下が湿気てしまうことに気が付かなかった。
これは、「科学の発達」の結果、人は「ものごとを、身を持って知ること」、そしてまた「全体を知ろうとすることを忘れてしまった」からだ、「部分・要素の足し算で考えるようになってしまった」からだ、と言ってよいでしょう。[文言追加 8.20]
簡単に言えば、「現場」を知っていれば、布基礎のような発想は生まれず、仮に実施しても「問題」が見付かれば考え直すはずなのです。
残念ながら、そういう「常識」さえも失せてしまったのが現代なのです。
だから、姑息に姑息な「解決策」を継ぎ足して、袋小路に入り込んで、今は、さらに孔を掘り進んでいる状況。何処まで行けば気が済むのでしょうね?
註 [追加 9.49]
最近「ベタ基礎」が流行っています。
私の「実感」では、「ベタ基礎+布基礎」の床下では、
湿気を帯びた空気が滞れば、かならずコンクリートに結露します。
「断熱材」を敷き込んでも変りありません。
「断熱材」があろうがなかろうが、
コンクリートは地温になっているからです。
防湿コンクリート打設などもまったく同じ。
湿気が地面から上がってくる、と考えるのが間違い。
余程の低湿地でないかぎり、そしてまわりから水が来ないかぎり、
建物の床下の地面は乾くのが普通です。[「の地面」文言追加]
神社の床下がアリジゴクの棲家になるのは、そのためです。
だから布基礎は、床下の土の乾燥化を妨げるのに「有効」なのです。