日本の建物づくりを支えてきた技術-10・・・・「天井」をめぐる「解釈」

2008-10-06 09:52:43 | 日本の建物づくりを支えてきた技術

[また間が空きました]

「日本建築史基礎資料集成 四 仏堂Ⅰ」の「概説」に、中国の書「営造法式図様 大木作制度図様」記載の図や、1960年代の中国の「文化財研究誌」(「文物」)記載の図との比較で、日本の初期の仏堂の形式について、彼我との違いが解説されています。

   註 私は「営造法式図様」を実際に目にしたことはありません。
      [文物]とは、日本の[文化財]に相当する語です。
      「文物」とは、そういう名称の「研究誌」です。

ただ、古代、隋・唐の工人たちが、そういった「図」を持って来日したかどうかは定かではありません。むしろ、持っていない、持ってきたのは「頭」と「手」だけ、と考えた方が自然だと思います。

そして、実際につくる立場にたつと、「概説」に書かれている言わば「結果論」だけではなく、いったい彼の国の工人たちは、そのとき何をどのように伝え、そして日本の工人たちは、何をどのように得たのか、そこが一番知りたいところです。

けれども、そのような建物をつくる「経過・過程」は、記録としては残らないのが普通で、また、記録として残ったとしても、かならずそこに「脚色」が入っているはずです。
それは、あたりまえで、やむを得ないことです。
なぜなら、誰も、記録を残すことを念頭に仕事をするはずがなく、後で「経過・過程」を振り返ると、かならず、つくる場面でいろいろと考え、行ったり来たりしながら悩んだことを「整然と整理してしまう」のが普通だからです。ときには、「潤色」も行なわれることでしょう。

   註 現在の建物づくりでは、「記録」を念頭においた仕事が
      多いように感じます。簡単に言えば、写真映りです。

そこで、前回のシリーズでは、「知識」を得るために、どちらかというと、私たちの目の前にある「結果」を考える点に軸足を置いてきましたが、今回のシリーズでは、「つくるときに何を考えているのか、考えていたのか」、という視点に立つように努めたい、と思っています。

当然「記録」はないですから、「当て推量」的なことになり、「資料をもって証明しなければならない」という立場に立てば、「何と非科学的な・・・・、もってのほか」ということにもなるでしょう。
けれども、そういう意味での「科学」にあまりかかずりあうと、どうしても萎縮してしまう、と私には思えます。
以前にも触れましたが、鉄やコンクリートの利用が始まった20世紀初頭のはつらつとした創作活動が、その後の「構造科学」の「進化」とともに萎縮してきたのも、その一つの例だ、と私は思っています(下註参照)。
同様に、木造の建物づくりでも、「建築基準法」とそれを支えてきた「筋かい」使用を必須のもとしてきた「木造工法理論」が世の中に「蔓延」してきた結果、「これが古来木造主体の文化を築いてきた国なのか」、と疑いたくなるような木造建築が増えてきたのもその例と言ってよいでしょう。

   註 「まがいもの・模倣・虚偽からの脱却・・・・ベルラーヘの仕事」
      「鋳鉄の柱と梁で建てた7階建てのビル・・・・世界最初のⅠ型梁」
      「コンクリートは流体である・・・・無梁版構造の意味」
      「閑話・・・・最高の不幸、最大の禍」
      など

それはさておき、先回、「組物」のいろいろを見る中で、あるとき以来「天井」が張られるようになり、それとともに、「天井裏」に架構を支える新たな工夫がなされるようになる例を紹介しました。「桔木(はねぎ)」の活用です。
「桔木(はねぎ)」は、中国建築には見かけませんから、日本独自の発想と考えてよいでしょう。


◇ 「桔木(はねぎ)」と天井裏

「桔木(はねぎ)」の利用など、天井裏がどのようになっているかは、07年3月に図を載せて触れています。

   註 「日本の建築技術の展開-6・・・・古代から中世へ:屋根・軒の・・・変化」
      「日本の建築技術の展開-7・・・・中世の屋根の二重構造」

上掲の図は、「中国・仏光寺」「法隆寺 大講堂」「秋篠寺」の梁行断面図です。「法隆寺 大講堂」と「秋篠寺」の図は、いずれも復元推定の断面図です。これらの図は、どれも、すでに上の註で紹介の記事に載せてあります。

上の図では、3例とも「天井」が設けられています。
このうち、日本の2例の「天井(組入天井)」の裏側は、中国の最古と言われる「仏光寺」のそれと、まったく異なります。

中国のそれでは、天井裏にも、天井の下に見えている部分とまったく同じ架構法が見られますが、日本の例は2例とも、見えている部分とはがらりと様子が異なり、中国式の架構方法は天井裏では使われていません(もっとも、「秋篠寺」では、「虹梁」は見せ、それから上を天井裏としていますが、「法隆寺 大講堂」の場合、「虹梁」も天井裏に隠しています)。

日本での室内に天井を張るきっかけについては、すでに上掲記事で紹介したように、室内高の調整のためだ、と言われています。
すなわち、中国式に倣った緩い勾配の屋根では日本の雨に適応でないため、屋根勾配を急にするようになります。そうなると、屋根の下にできる空間の高さが、そこで暮すには高すぎる感じになります。かと言って適当な高さになるように急な勾配の屋根全体を下げると軒先が低くなる。そこで、屋根勾配を急にし、なおかつ軒高も維持する方法として「天井」を張り室内高を調整する方策が生まれた、という解釈・考え方です。
椅子座式を中心とする中国の暮しと、座式に移行した日本の暮しの違いが影響している、と考えられているわけで、ひいてはそれが「和様」のつくり方にも影響したとされています(この「説明」については、上記記事で詳しく紹介しています)。

では、「仏光寺」に見られる「天井」は何のためなのでしょうか。
ここでは「天井」で隠されている部分も、見えがかりの部分と同じ方式、すなわち「斗」「肘木」を設けて「梁」を受ける方式でつくられています。
この「天井」は最初からなのか、それとも後世のつくりなのでしょうか。

今回は載せませんが、07年3月26日に転載した「仏光寺 大殿」の写真の中に、天井裏の写真があります(下記記事参照)。

   註 「余談・・・・中国最古の木造建築」

これを見ると、天井裏に組まれている「斗」や「肘木」(「斗栱(ときょう)」と言いますが、これは発音は異なりますが中国語そのままの用語です)、そして「梁」「又首(さす)」の類は、天井下の見えがかり部分に比べ、粗い仕事になっています。特に、「母屋桁」の上の「垂木」の切換えなどは、仮設か?と思うほどです。

   註 このシリーズでは、「斗栱(ときょう)」という用語は、これまで
      使っていません。この用語を使わなくても、話はできるからです。
      ここであえてこの用語を書くのは、そういう「用語」があることを
      知っておいていただくためです。もっとも、知っているからといって
      どうということもありませんが・・・・。

この写真から判断すると、「天井」を張るのは、当初からのように思えます。
つまり、当初から「天井で見えなくなる部分:隠れる部分」があった。
しかし、隠れる部分でも、「天井」より下の「見える部分」と同様の架構法を採っていた、ということになります。

では、「仏光寺」では、「天井」はなぜ設けられているのか?
すでに紹介した「日本では座式の生活に合うように天井を張るようになった」という「天井」と、中国の「天井」とは何が異なるのか?という疑問が湧いてきます。


上の2つの日本の例では、「天井」で見えなくなる部分は、言わば徹底して中国式に倣うことをやめているように見えます。
「法隆寺 大講堂」の推定復元図では「桔木(はねぎ)」こそ使われてはいませんが、「地垂木」上に、「枕」を流して「束」を立て「野母屋」を設け「野垂木」を架けるという「野屋根」をつくる方式が天井裏で使われています。
「秋篠寺」では、「地垂木」上に「枕」を長し、「桔木」を受け、「束」で「野母屋」を支え「野垂木」を架ける「野屋根」方式へと変っています。

そして、平安時代頃から始まったこの方法は、後に、近世に至っても、上流社会の建物の屋根架構の「常套的手段」へと引継がれるのです。

おそらく、日本の工人たちは、中国伝来の仏教寺院の形を「形式」「様式」としては受け入れながら、実際につくるにあたっては、日ごろ手慣れた方式を使った、と言えるように思えます。
すなわち、見える部分を「中国伝来の仏寺」の形にしなければ、それは「仏教寺院」とは言えない、見なされない、しかし、隅から隅まで中国式に倣う必要はない、倣わなくても自分たちの方法で建物はつくれる、その方が簡単だし確実、それゆえ、見えがかりが中国風の「仏教寺院」の形式になっていればよいではないか、という「苦しい判断」を日本の工人たちはしたのではないでしょうか。

ここに挙げた2例は、いずれも、先ず「見えがかりとなる中国伝来の形式」をつくり、その上に「野屋根」を架ける、という手順の仕事をしています。先に紹介した「新薬師寺 本堂」も同様です。
すなわち、「化粧の部材:地垂木」の上に「枕」を流し、その上に「野屋根」を組むのです。明らかに「二重手間」をかけることになります(先に紹介の「法隆寺東院 伝法堂」と比べてみてください)。

「見えがかり:化粧となる部分」が先行する、ということは、その「見えがかりの架構」が、その上に載る「野屋根の架構」を支えなければならない、と考えたくなります。それゆえ、当初は、先に「新薬師寺本堂」の紹介の際に、「十分屋根を支えることができる部材」で「見えがかり」がつくられている、と書きましたが、「見えがかりになる部分」でも、本体の架構を支えるに十分な大きさの部材でつくらなければならない、と考えたのだと思われます。
しかし、時代が下ると、「野屋根」を支えるのが「化粧屋根」を介しても下部の軸部:「柱」であり、「化粧」部分の部材を大きくする必要ないことに気付き、だんだん細身になってゆきます(たとえば、「桔木」を受ける「枕」は「地垂木」の上ではありますが、「柱」の直上に置かれていますから、「地垂木」自体は「枕」で潰されない程度の太さであればよいわけです)。


さて、日本の「天井」は座式の生活のために室内の空間の形体の調節が必要になり、使われるようになった、そしてその天井裏が生まれた結果、それを利用する架構法が生まれた、というのは確かに筋の通った解釈ではあります。

しかし、中国にも日本にも「天井」があります。
であるならば、「座式の生活様式に合わせるため」という理由は、中国建築の「天井」の解釈にはなりません。
第一、たとえば「法隆寺 大講堂」は、通常、歩いて、つまり立った姿勢で拝観します。それでさえ、天井が高いな、と思います。座ったら、さらに違和感を感じるはずです。「座式」に適合しているとは思えず、むしろ、そこに置かれた「仏像」との関係で高さが決められている、と考えた方が自然です。

つまり、「椅子座式」「座式」という生活様式と「天井」の存在を直接結びつける必要はないことになり、もっと単純に、「椅子座式」「座式」という生活様式とは関係なく、ということは、彼我とは関係なく、工人たちは『その場に必要な空間形体を獲得するために「天井」を設ける工夫をした』と考えれば済むように思います。
そして、そうであるならば、日本の工人たちは、「見え隠れ」は手慣れた日本のやりかたで仕事をすればよい、と考え、中国の工人たちは、中国の手慣れたやりかた(それは「斗」「肘木」を使う方法なのですが)で仕事をした、と解釈すればよいことになります。

   註 中国の手慣れた手法:「斗」「肘木」を使う方法:は、
      以前に下記記事で触れたように、
      中国建築の主たる発祥:「土の建築」と中国の木材の特徴に
      よるものだ、と私は考えます。
      中国でも、日本と同じような木材の得られる地域の木造建築は、
      日本と類似の方法を採っています。
      「日本の建物づくりを支えてきた技術-6・・・・初期の寺院建築」


彼我で何が違うかと言えば、日本の工人たちは、伝来の「中国建築」の形式に従わなければならない、あるいは、従わなければならないと思い込む、そういう状況に置かれていた、ということです。

そして、以後の日本の「表(おもて)の建築」(あるいは、「為政者側の」または「支配者側の」建築)の歴史は、この「思い込み」から脱却するという「面倒な過程」をたどることになる、と言ってよいでしょう。

   註 もちろん、中国の架構法から得たことが多々あることは
      否定できません。

これに対して、一般の人びとの建物では、「見えがかり」と「見え隠れ」を、別々の方法で考える、などという「面倒なことはしなかった」のではないでしょうか。

   註 たとえば、明治の末、西洋の建築様式が導入されたとき、
      中央政府に近い人たちは、「煉瓦」は西洋風の建物の材料との
      意識・認識が強く、素直に「煉瓦」と向き合えませんでした。
      ところが、会津・喜多方の人たちは、「西洋風」とは無関係に
      「煉瓦」を自分たちの建物づくりに使ってしまったのです。
      それは、「煉瓦」=「西洋建築」との思い込みを持つ人たちには、
      少なからず「不愉快な」ことだったようです。
     
      そのときに喜多方で使われた煉瓦を焼いた窯が、
      いま再稼動しようとしています。

   註 一般の人びとの建物づくりでも「必死でつくる」時代をすぎると、
      「見えがかり」と「見え隠れ」を別に考えるようになります。
      たとえば、明治初期、商家では「見栄」のために建物をつくる
      「流行」がありました。そうしてつくられた「豪壮な」建屋が、
      「それが民家だ、という誤解」も生んでしまっています。
      先回紹介した「出桁」も、「必要」からではなく「見栄」で
      つくられる例が多くなるのも「必死な時代」を過ぎた後です。
      こういう傾向からの「脱却」も、並大抵ではありません。

「天井」の出現にあたっては、そのときの工人たちの微妙な心の動きが背景にあるように思えます。

次回

この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 日本の建物づくりを支えてき... | トップ | 日本の建物づくりを支えてき... »
最新の画像もっと見る

日本の建物づくりを支えてきた技術」カテゴリの最新記事