雑感・・・・“modern times” の到来・1  

2008-07-02 16:47:42 | 論評
[タイトル変更 7月5日10.04]
[註記追加 真島健三郎氏論説全文のダウンロードについて 7月8日 6.03」

このブログに、多くの方にお寄りいただき、ここで御礼申し上げます。
書く方としては、それを斟酌しながら記事を書いているわけではありませんが、いつも、皆さまが、どのような記事に関心がおありなのか、興味をもっております。


今もってよく閲覧されているのは、「ホールダウン金物の使用しなければならない箇所は極めて少ない」という記事かもしれません(「『在来工法』は、なぜ生まれたか-5 補足・続」)。これはおそらく、ホールダウン金物に「悩まされている」方が多いからだ、と思います。

そこで示した「表」は、ある講習会で、例の「告示第1460号:仕口の規定」を解説するために「改訂法令解説書」の内容を要約整理したものにすぎません。

とかく建築法令は、わざと分りにくくしているのではないか、と思いたくなるほど「難解」です(山口瞳という作家が、建築法令は、悪文の最もすぐれた見本、と書いています)。そこで「理解」するために表に要約してみたら、実に簡単な項目にまとまってしまったのです(もっとも、行政や確認審査をなさる方のなかには、「反発」を感じている方々がたくさんおられるようです)。

私は、木造軸組工法に対する法令の各種規定にともなう「面倒」は、すべて、「筋かいを設けろ」という「規定」に端を発している、と以前から考えていました。
日本の木造建築で「筋かい」が大々的に使われるようになった(使えと言われるようになった)のは、ごくごく最近のことです。そして、それにともない、いろいろと「面倒」が次から次へと生まれた、と私には思えるからです(このあたりについては、07年2月5日~19日にかけての「在来工法は、なぜ生まれたか」シリーズで私見を書いています。特に「『在来工法』は、なぜ生まれたか-5・・・・耐力壁に依存する工法の誕生」に経緯:いきさつ:を私なりにまとめました)。

つまり、ホールダウン金物が出現するまでの過程、言うならば木造建築に関わる法令の規定が「複雑」化してきた経緯を概観してみた結果、法令自体が「筋かいを設けろ」という規定によって「自縄自縛状態に陥った」のではないか、と私は考えていたのです。
そして、告示第1460号の内容を整理してみて、私の「想定」は「確信」に変るに至りました。ホールダウン金物を使わなければならないのは「筋かい」それも「たすきがけ」の場合に限られることを「発見」したからです。

私は、ホールダウン金物の使い方:“how to”を知ることも必要とは思いますが、同時に、かつては存在しなかったホールダウン金物が、なぜ出現したのか、その出現までの過程:いきさつ:を、皆が「理詰め」で考えてみれば、誰でも、自ずとその理由、そしてその無意味さが、つまり「自縄自縛状態」が、分ってくるはずだ、と思ってきました。

   註 ホールダウン金物の出現を、技術の進歩と考える人もいます。

たしかに、日々の仕事に追われているなかでは、そんなことを考える時間はない、そんな時間のかかることはしたくない、できない、と思いたくなるのは分ります。
しかし、皆が皆そうしたらどうなるでしょうか。
法令の規定を鵜呑みにして、あるいは理由も考えずに、何でもいいからホールダウン金物は付けておけばいいのさ・・・・・、という事態になってしまうのではないでしょうか。
今、町場の現場を見ると、実際そういう状況になっているように思えます。

要するに、こういう事態を続けていれば、とりあえず仕事が難なく進捗すること、そのための“how to”があればそれを知りたい、それが分ればそれで済む、ということに結果します。
某建築情報誌などは、たとえば昨今の「基準法、建築士法等の改変」へいかに対応したらよいか、という“how to”に徹した内容で編集されています。
言ってみれば、「世の大勢・体制にいかに素早く馴染むか、それにはどうしたらよいか、そのためのコツ・・・」、こういう“how to”に一般の人びとの関心がある、という認識が編集者にあるからだ、と見てよいでしょう(もしかしたら、実際に、世の中がそうなっているのかもしれません)。

もしも実際にそうなっているとしたら、どうなるか?
「ものごとを根底から考える」という「習慣」が消えてしまいます。《力のある人》の言いなりになっていればよい、そうすれば無難だ・・・・・ということになってしまうでしょう。現に、そういう傾向が生まれているような気がします。

大分前に、5W1Hのことを書きました(「建築に係る人は、本当に《理科系》なのか-2・・・・『専門』とは何か」)。英語の時間に、ものごとは常に、why when where who what そして how で考えなければならない、文章において必須な要件だ、と教えられました。「ものごとを理詰めに考える要件」と言ってもよいはずです。
理詰めで考えるのならば、建物をつくるという営為もまた、常に 5Wで、 つまり、「なぜ」、「いつ(今)」、「どこで(ここで)」、「誰が(誰のために)」、「何を(かくかくしかじかのもの)」をつくらなければならないのか、を考えた上で、ならばそれを「いかに」つくるのがよいか、という手順で考える必要があることになるわけです。


先回、最近《話題》の建物について触れました。
あの事例では、設計者に於いて、5W1H の問はなされたのでしょうか。
おそらく彼の設計者にとって、who は「自分自身」であり、what は「自分を差別化し表現できるもの」であり、when は「自分の都合」であり、where は「どこでもよい」のであり、why は「自分を目立たせたいから」であり、そして how は、そういう「自分の《夢想》をかなえるためなら『無理』をしてでも」、ということになるのでしょう。

こういういわば《特権的事例》以外ではどうでしょうか。
残念ながら、同様に、5Wの問いかけはなく、当然1Hも、あるとすれば、「法令への適合:順応の how to」だけになっているように思います。
たとえば、ホールダウン金物をどう使うか、どう使ったら確認通知がもらえるのか・・・・という点に関心がゆき、なぜそれが要るのか、なぜ昔の建物にはなかったのか・・・・などについては考えなくなっているように思います。

設計図自体、そして構造計算も、すべてがソフト任せになってきているようです。ソフトに拠っているから間違いはない、とでも考えているのではないか、と思いたくなります。
人の「指示」、ソフトの「指示」に唯々諾々として従う「自動人間」化。
チャップリンの「modern times」が、いよいよ現実化してきたのかもしれません。


上掲の文章は、真島健三郎氏の1924年に書かれた論説「耐震家屋構造の撰擇に就いて」中の、日本の木造建築について触れている箇所の原文です。
現代文に直せばこうなります。
「・・・頭の大きく高く、しかも重い荷を負っている大寺院でもほとんど四方明け放しで耐震壁もなければ筋かいもボルトも短冊金物もないのに百千年厳然と立っている。もしこれに太い筋かいを入れたり耐震壁を設けたりボルトで締め付けたりしたならば、あたかも鉄道客車から緩衝装置を取り外したと同じで、折角の柔性を損し、かえって危険を増すだろう・・・」。(「紹介・真島健三郎『耐震家屋構造の撰擇に就いて』」

   註 この論説の全文は、下記リスト中からダウンロードできます。
      「土木学会震災関連デジタルアーカイブ学術誌別リスト」

この方は、目の前の現実・実像を基に考えを進める方で、「机上の理論」でものを見ない人、といってよいでしょう。
よりきつく言えば、現実・実像の解釈ができない理論は理論とは認めない方です。
これに対して、現代の《学者・専門家》の多くは、現実・実像を「机上の理論」のメガネで見てしまうのです。
どちらが科学的か、自ずと明らかでしょう。
コメント (4)
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