設計の「思想」・・・・「御茶ノ水」駅と「小竹向原」駅

2008-07-09 19:36:27 | 設計法
[文言更改 7月10日0.25][文言追加 7月10日0.43]

はなばなしく開業した地下鉄「副都心線」の「小竹向原」駅での「混乱」は相変わらず続いているらしい。
要は、その駅で、東武線、西武線そして地下鉄線が地下鉄「有楽町線」と「副都心線」とに分岐する、その分岐の仕方にあるらしい。言ってみれば、同一面上でポイントの切り替えでその分岐を差配しようという計画。

この期に及んでまだ地下鉄をつくること自体が私には不可解なのだが、それはさておき、こういう同一平面上で、ポイントの操作だけで列車の動きを操作する、という「設計」に、現代の設計「思想」を垣間見た気がした。

JR中央線には、快速線と緩行線(各駅停車)が並列で走っている。御茶ノ水で快速線:東京行と緩行線:千葉行とは分れる。

新宿駅のホームには、東京方に向って左側から番号がふられている。東京方面行の快速は一つのホームの両サイド7、8番線、高尾方面行は、これも一つのホームの両側11、12番線(間の9、10番は中央線の特急用)。
緩行線の千葉方面行は13番、同じホームの対面14番は山手線の内回り:渋谷・品川方面行、中野・三鷹方面行は16番で、その同じホームの対面15番線は山手線外回り:池袋方面行。

つまり、緩行千葉行で来て池袋方面に行く人は地下道または陸橋を渡って隣のホームに行かねばならないが、渋谷・品川へ行く人は同じホームの向かい側に歩くだけでよい。
また、緩行三鷹行で来た人が渋谷に行くには地下道または陸橋で隣りのホームへ行かなければならないが、池袋に行く人は同じホームの向かい側へ歩くだけ(もっとも、三鷹行で来て渋谷に行きたい人は、一駅前の代々木で乗り換えれば、同じホームの対面で済む)。
このようなことが行えるようにするためには、緩行線、山手線を、新宿駅の手前で立体交差させることが必要になる。東京方から新宿駅に近づくとき、その立体交差を見ることができる(注意して見ていないと、立体交差していることに気づかない)。

四ツ谷駅では、東京方に向って左に快速の往復が、右側に緩行線の往復が、それぞれ一つのホームを使って走っている。

ところが御茶ノ水駅では、快速東京行と緩行千葉行が同じホームの両側(左が快速)、快速高尾行と緩行三鷹行が同じホームを使う。
つまり、東京行で来た人が千葉方面に行くには、陸橋を渡らず同じホームの対面へ歩けばよく、同様に緩行三鷹行で来た人は、同じホームで快速高尾行に乗り換えることができる。
しかし、御茶ノ水駅でこのような形に分けられるためには、新宿駅同様、立体交差が必要となる。実際、御茶ノ水の手前と神田側で、そういう立体交差がある(これも注意して見ていないと気づかない)。

このような立体交差は、今でも難工事になるはず。しかし、乗降客にとっては、同じホームを歩くだけで済むならそれに越したことはない。本当の意味でのバリアフリー。

また、秋葉原駅の階段が、総武線と山手線、京浜東北線の乗り換えパターンに即したものになっているのも注目に値する。
当初(昭和初期)、秋葉原駅は、言ってみれば「乗り換えのための駅」。現在のように、地上が電気街になるなどは想定されていなかった。だから、乗り換えには便利だが、地上に降りる階段、経路がややこしい。

昭和初期の設計者・計画者は、乗降客の乗り換えのパターンを想定し、あえて面倒な立体交差まで計画して乗降客の利便第一に考えたのである。当時の設計者には、乗降客の存在が見えていたのだ。

これに対して副都心線「小竹向原」駅は、立体交差を使わず同一平面上の交差で、列車の行先をポイントの切り替えで行う設計のようだ。コンピュータ制御で十分こなせる、とでも考えたのだろう。しかし、下手をすれば、衝突も起きかねない。


御茶ノ水駅が現在の形になったのは、1932年(昭和7年)、両国停まりであった総武線が乗り入れたときの設計。
新宿方から中央線に乗って注意深くあたりを見てみると、神田川と崖に挟まれた狭い用地のなかで、この乗降客のスムーズな乗換えを意図した立体交差工事をものの見事にこなしていることが分る。

おそらく、今なら、乗り換えのためには乗降客に歩いてもらうことにして、このような計画は工費がかかるとして絶対にやらないだろう。
たとえば快速と緩行とが並走する常磐線の上野~取手間の場合、緩行と快速の乗り換えは、かならず地下道または陸橋を上り下りしなければならない。
常磐線の緩行、快速ができたのは比較的新しく、そこでは乗降客の利便よりも工事の「合理化」が優先されたのである。


もしも「副都心線」が昭和の初めに計画されたなら、「小竹向原」駅も、乗降パターンを想定し、立体交差も行って、運行が安全にスムーズに行え、しかも乗降客にとって分りやすく、乗り降りしやすい駅になるように計画したに違いない。
具体的には、「有楽町線」「副都心線」それぞれ専用の発着ホームを設け、それぞれへ「東武線」「西武線」が乗り入れる。当然、立体交差が必要。工費もかなり増えるだろう。
しかし、昭和初期の設計者なら、工費がかかったところで全体の工費からすれば微々たるもの、第一それは当然必要な工費・経費である、と考えたはずだからである。[文言更改 7月10日0.25]

どう考えても、現代の設計の「思想」には肝腎な点が抜け落ちている。
「小竹向原」駅で起きている混乱は、現代の「思想」の欠落を露にする「象徴的な事件」のように私には思えてならない。
そしてそれは、以前に紹介したように、鉄道敷設、鉄道経営が、当初の「周辺住民の利便のため」から、「儲ける手段」に変質したことと無関係ではない(「鉄道敷設の意味・その変遷-3・・・・《儲ける》ために鉄道を敷設する時代」参照)。
もしも利用者がいなければ、あるいは少なければ、新線敷設など考えるわけがないではないか。「利用者」は、「儲けるためのモノ」にすぎない。だからこそ、利用者の利便など、念頭におかれないのである。[文言追加 7月10日0.43]

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