古墳群のある村:玉里村・・・・補足・地名小考

2008-03-30 17:32:09 | 居住環境
玉里村の「たまり」という名は、古墳群があることでも分るように、古代以来の名:呼び方のようだ。
「茨城県の地名」(平凡社)の「玉里村」の項からそのあたりについての記述を以下に要約紹介する。

・・・・村名は「常陸国風土記」にある「田余」にちなむ。村の大部分は、石岡台地東端の舌状台地上にあるが、園部川河口に霞ヶ浦に面した肥沃な水田地帯をもっている。・・・・明治22年(1899年)の町村制施行により田余村、玉川村が成立し、昭和30年(1955年)田余・玉川両村が合併して玉里村となる。

  註 田余村:上玉里、高崎、田木谷(たぎや)、
          栗又四箇(くりまたしか)の四村の合併
    玉川村:下玉里、川中古(かわなかご)の二村の合併
    これら旧村名は、字として残っている。

「和名抄(わみょうしょう、倭名抄とも書く)」では、上玉里、下玉里は「田余郷」の本郷の地であると記されている。

  註 和名抄:「倭名類聚鈔」の略称:承平年間(931~938年)に
     編まれた日本最古の分類体の漢和辞書

「常陸国風土記」には、「たまり」の由来について、次のようにあるという。
・・・郡の東十里に桑原の岳あり。昔、倭武の天皇、岳の上に停留まりたまひて、御膳を進奉りし時、水部をして新に清井を掘らしめしに、出泉浄く香しく、飲み喫ふに尤(いと)好かりしかば、勅したまひしく、「能く渟れる(たまれる)水かな」とのりたまひき。是によりて、里の名を、今、田余と謂ふ。・・・

これは、もしかしたら、「たまり」という呼び名が先にあって、それに漢字があてられたのかも知れず、あるいはまた、字の如く、余るほど広い田が広がっていた:たあまり:ことの謂かもしれない。

土浦の東部、霞ヶ浦に沿って「木田余」という字名の一帯がある。玉里の田余と似たような地形の地である。
「木田余」は「きだまり」と読む。これも玉里の名と関係があるのか、調べてみたが分らない。
ただ「木田余」は、永禄7年(1564年)の文書には「きなまり」と書かれていて「木滑」という字があてられているという。

私の住む字は「男神」。「おがみ」と読むが、近くに「女神」とでもいう地があるかというと、ない。正保・元禄以前は「小神」と書いていたのだという。
「おがみ」という呼び名が先にあって、それに漢字が適宜あてられたのかもしれない。

平成の市町村合併で、古来の名のいくつかが、字名からさえも消えてしまった。ことによるとそれは、土地土地の歴史の喪失に連なるのではないだろうか。

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