建築をめぐる話・・・・つくることの原点を考える       下山眞司        

                     ☆ 2019年1月より、故人が残したものを順次、掲載して行きます。☆

東大寺・南大門・・・・直観による把握、《科学》による把握

2006-11-28 00:41:50 | 「学」「科学」「研究」のありかた

◇厳密さと精密さ、その違い

「冬」の概念の話のときに、自然言語は常にリアリティに触れている、いかなる理解も結局は自然言語に基づかなければならない、との物理学者・ハイゼンベルクの言を紹介した。

ところが、近代以降、学問の世界では、物理学を代表とする「数学的自然科学の方法論」が、最も「厳密な科学的な思考法」と見なされ、自然科学はもちろん、工学や人文科学の世界に於いても、重用される傾向が顕著になった。今では、すべて、数値化あるいは数値目標をもって語るのがあたりまえになっている。

しかし、このような状況の到来に対して、警鐘をならした人がいなかったわけではない。以下に、ある人の一文を紹介しよう。
「・・研究の厳密さは(その対象領域により)独自の性格を持っています。数学的自然科学の厳密さは、精密さです。・・数学的自然研究は、正確な計算がおこなわれるから精密なのではなく、その対象領域への結びつきかたが精密さの性格をもっているので、そのように計算されねばならないのです。これに反して、・・生活体についての諸科学は、・・厳密であろうとすれば、必然的に精密さを欠くことになるのです。・・」(ハイデッガー「世界像の時代」桑木 努 訳 理想社)

◇工学とは何か

ところで、「ものをつくる」ということは、学問の世界で言うと、どこに属することになるのだろうか。多分今では、当然のように多くの人が「工学」と答えるはずだ。さらに、「工学」は自然科学系の学問の世界だと大方の方が思っているにちがいない。つまり《理科系》だ。

はたして、この理解は正当だろうか。私の答は、否、である。
「つくられたもの、できあがっているもの」を自然科学的方法論で分析することは、ことによると可能かもしれない。
だが、「ものをつくる」という「人の営為」は、すでに自然科学的方法論の埒外にある。「人の営為」についての言及は、ハイデッガーの言う「生活体についての科学」だからだ。

もともと、工学の「工」は、大工の「工」、「ものをつくること」、「たくみ」という意味。だから、明治初頭の「工部大学校」には、現在の「美術」も含まれていた。
残念ながら、この本来の意味は変質し、「ものをつくること」から「つくられたもの」についての《論考》が主となり、さらに、あろうことか、その《論考》をもって「つくること」に干渉するようにさえなってしまった。

しかも、その《論考》の多くは、先日書いたように、数値化絶対信仰ゆえに、実態・リアリティを、数値化できるように似て非なるものに改変して扱うことさえ平気になった。数値化できないものは、捨て去るか無視するのである。すでにしてscienceとは程遠い。このことに警鐘を鳴らしたのがハイゼンベルクであり、その傾向の根は、研究の「厳密さ」に対する「誤解」にある、としたのがハイデッガーだと言ってよい。

◇直観による把握、《科学》による把握

上掲の図と写真は、東大寺・南大門である。高さ約25m、軒の出約5m。1199年に東大寺再建にあたり重源の指図により建てられた。浄土寺・浄土堂と並ぶいわゆる「大仏様」の代表である。その構想は、あるいは、浄土堂よりも、より明快と言ってよいかもしれない。

この南大門、現在の木造建築の「耐震診断」法を適用すると、明らかに要耐震補強の建物になる。しかし、実際は、建立当時の材で、建立以来800余年にわたり、健在である(柱は礎石に載っているだけ、壁も少ない。重心は高い・・・、すべて今の《常識》に反する!)

では、なぜ、要耐震補強、という結論が出るのか。
それは、「耐震診断法」の基になっている「構造理論」(簡単に言えば、架構を耐力部、非耐力部からなると見なし、耐力部が架構を維持する、という考え方)が、木造建築、特に、古来の日本の木造建築の実像・リアリティを、数値化のために、「似て非なるものに置き換えた上でつくられた《理論》」だからである。しかも、この考え方は、現在建てられる建造物まで律している(建築基準法)。

だが、この考え方によっては、いま、南大門はつくれまい。第一、このような構想・発想はいまの「構造理論」からは決して生まれないだろう。
なぜなら、《理論》に基づく部分的な《知識》がじゃまをして、「全体」を構想するようには頭が動かないからである。
これは、《知識》が直観力を駆逐してしまった現象と言ってよい。「工」が「工」ではなくなったのだ。
一方、南大門をつくった人たちには、生半可な《知識》などなく、あったのは、現象をありのままに捉える「直観的な把握力」であった。その意味で、彼らのやったことこそ、本当の「工学」だったのである。

〇図・写真は「奈良六大寺大観 第九巻 東大寺一」(岩波書店)からの転載です。
  なお、写真は、渡辺義雄氏の撮影。
  最近の建築写真とはまったく違い、本当に「建築」が撮られています。
  本書を一度是非ご覧ください。
  各写真が大判なので、ここに載せたのは、部分的にスキャンしたものです。
  原版は、凄い、の一言に尽きます。 
 

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