閑話・・・・「建築」とは何なんだ?!

2010-07-19 12:52:48 | 建物づくり一般
[事実誤認部分 訂正 20日 17.36][変換ミス訂正 21日 12.42]

昨日は講習会「伝統を語る前に」で話をさせていただいてきました。それにしても、いつものことながら、上野公園の人出には驚きます。ただでさえ暑いのに、人ごみはそれに輪をかける・・・。いつのまにか、お上りさんになったようです。
終わった後、懇親会。何となく、「世の中の様子」が分りました。若い人たちが、「囲い」の中に押し込まれ、自由に羽ばたけないでいる、そんな感じを受けました。



今朝の合歓木です。晴れた空に浮かんでいました。樹木は自由です。枝振りに現われています。やはり、合歓木は、晴天に合うようです。


さて、少し前にメール配信されたケンプラッツの案内の一隅に、「建築が社会に学ぶもの」というのがあり、ずっと気になっていました。その記事の出だしには、次のようにあります。

  「ソーシャル」という言葉を目にすることが、極めて多くなった。
  ほぼ何にでも「ソーシャル」という言葉の“冠”が付く勢いにも見える。
  もちろん、これを単に「社会化(socialize)したもの」といった程度の意味で使うのであれば、
  何を指し示しても不思議ではない。
  流行に乗っただけのものは確かにありそうだ。しかし、これだけ頻出するのには訳がある。
  その幾つかに的を絞り、21世紀の現在ならではの潮流として建築(設計)との関係を考えてはどうか。

私には、「引っ掛かる」記事です。以前にも「建築は社会に何ができるか」という講演会があり、やはり「引っ掛かった」。これは何、いったい?

今日の毎日新聞で、私は関心がないのですが、今年のベネチアビエンナーレ国際建築展の「全体テーマ」が「建築で人々が出会う」だと報じられていました。それを読んで、ここしばらく引っ掛かっていた話を引っ張り出した次第。

私が引っ掛かったのは、きわめて単純なことです。
「社会」って何なの?
「建築」って何ものなの? ということ。
私には、「建築」とは、人が自らの場所・空間をつくりだすこと、しか思い浮かばない。
この人たちの「建築」は、どういうものを言うのだろう。

私が東京に出るには常磐線を使いますが、途中に比較的最近できた「ひたち野牛久」という駅がある。かつて開かれた万博会場の臨時駅が昇格したもの。あたり一帯は、「都市再生機構」によって、将来「再生」を余儀なくさせられるであろう「開発」が進んでいます。

この駅舎が、ホームに立つ人はもちろん、電車に乗っている人の目にきわめて鬱陶しい。
プラットホームの上屋が、ホームの長手に対して緩いアーチ状の形の屋根がいくつも並ぶ形をしていて、それだけならまだしも、そのアーチ状の形をつくるための太い鋼管の母屋が、ホームに直交して繁く波を打って並んでいる。これがきわめて太く、うるさく人の目に飛び込んでくるのです。

ホームの上屋は、列車の進行方向に並行するのが普通です。長い通路に上屋を架けるときに、通路に沿ってアーケードを架けるのと同じです。それが、古来、「人の感覚に素直な」やりかた。いわば「常識的な」方法だと私は思います。

おそらくこの駅舎の設計者は、「単に」、そういう「常識的な」解答を「避けたかった」だけなのではないか、と私は思っています。何故?、設計者の「アイデンティティ」を表現するために。

   蛇足 こういうのは、本当の「アイデンティティ」ではありません。

なかでも、ホームの上に直交して何本も横たわる太い鋼管の母屋のわずらわしさは「逸品」です。
先ほど、アーチ「状」と書きました。本当にアーチなら、こんな母屋は不要で、もっとすっきりします。そして、どう見ても本当のアーチにできるはずです。鋼材をアーチ型に加工することは簡単、その上に屋根材を葺くことも簡単。

何故そうしないのか、と考えると、まさか設計者がアーチを知らないとは考えられないから、きっと、あの太い鋼管の母屋を見せたかった、としか考えられない。
と、そこまで考えて、思い至りました。
設計者にとって、列車に乗っている人や、ホームの上にいる人の目にどう映るかは一切知らない、そんなのはどうだっていい、「遠景が大事だ」と考えたのに違いない、と。
多分これが本当のところだと思われます。
何故なら、この駅が開業したとき、建築紹介誌には、遠景の写真(だけ)が紹介されていたと記憶しているからです。要は「写真映り」。

この駅舎の設計者が、今回のビエンナーレのディレクターを務める方です。

訂正:これは私の思い違いでした。読まれた方から、メールでご指摘をいただきました。
ディレクターを務めるのは、この駅前のガラス張りのビルを設計した人です。
謹んで、ご迷惑をお詫びします。
駅の設計者は、研究学園都市の「開発」に深く係わって来られた方です。
かと言って、駅の印象は変るわけではありません・・・・。
また、この後の内容:この一文の趣旨にも変りはありません。[訂正追記 20日 17.36]

「『建築で人々が出会う』というテーマは、社会や使い手との新しい関係を追及してきた(設計者)自身の建築観とも重なる」と、新聞記者は書いています。

私は思わず次の言葉が口をついて出ました。
「新しい関係」って何?
「社会はもちろん使い手は、あなた(たち)のつくる《建築》なる容器に詰められる単なる「物品」にすぎないのか、冗談じゃない!
あなたたちに、私たちをベルトコンベア上の物品のように、勝手に操作して「出会わせる」、そんな「特権」はないはずだ。
私たちにも「普通の感覚」があるんだよ!

そしてさらに、冒頭のケンプラッツの記事へと繋がったのです。
何か、私が「常識的に」考えている「建築」についての『概念』とはまったく違う概念が、今の建築界にはあるらしい。

しかし、寡聞にして、私はその「新しい概念」についての「解説」「教義」を、見たことも聞いたこともないのです。

どなたかご存知でしたら、ご教示ください。

はるか昔、明治25年:1892年、伊東忠太は、「造家」の用語を「建築(術)」に改称すべし、と説く一文で、「アーキテクチュールの本義は・・・実体を建造物に藉り(かり)意匠の運用に由って真美を発揮するに在る。・・」と書いています。
何だかタイムスリップしたみたいな感覚を覚えます。
   変換ミスで「伊東」が「伊藤」になっていました。
   その旨のご指摘メールをいただき、訂正しました。[21日 12.42]

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2 コメント

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興奮しました (布施 弘)
2010-07-23 10:14:06
下河敏彦氏のブログに誘われて、なんとなく来てみました。
驚きました。嬉しくなりました。まだドキドキしています。落ち着けません。
何をどのように整理したらよいのかまだまさに五里霧中です。方針さえも見えません。

『「学」「科学」「研究」のありかた』にとくに強く惹かれています。
『「自然科学」畑の方がたには、「複雑な事象」は「複雑な事象として、あるがままに観よう」「あるがままに観たい」、という「意識」が常にあるようです。』
その通りです。
あぁ、まだ思いがまとまりません。じれったいです。

物事についてこのようにお考えになる方々がおられることに、とても興奮しております。この年になって(1940年生)こんなに興奮するなんて、自分でもおかしいと思っているのですが、…

すみません、落ち着いて整理できたら、改めてコメントします。
この『「建築」とはなんなのだ』も、文字通り目から鱗が落ちたように感じました。なんだろう、視界が広く明るくなったような。
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御礼 (筆者)
2010-07-23 12:27:24
コメントありがとうございます。

私のいる建築界は、どういうわけか、似非(自然)科学者が多くて困っているのが実情です。
ですから、私の言うこと、書くことは、迷惑至極のようです。当たり前に思うことを書いているだけなのですが・・・。

今後もお読みください。そしてご批判を。
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