「伝統を語るまえに」

2010-09-22 19:06:14 | 日本の建築技術


キバナコスモス。今年は猛暑だったせいで、よく咲きませんでした。これは昨年の今頃の様子。

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先般、標記の講習会、無事に終わらせていただきました。
正式な標題は
「伝統を語るまえに:知っておきたい日本の木造建築工法の展開」

かなりの方が、「伝統を語るまえに」という文言に引っ掛かったようです。
私は、配布資料の最後に、その理由を書きました。いわば「あとがき」です。
その全文を下に転載します。

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おわりに

この講習会の標題は「伝統を語るまえに」です。
なぜ、このような標題にしたか、最後に説明させていただきます。

私は、建築基準法が支配する現在の建築界に、往年の日本の建築技術に関心がある方がたが多く居られることに安堵しています。
その方がたが現行法令の規定に悩まされていることも知っています。

しかし、最近、現行法令に、往年の建築技術の仕様:「伝統工法」の仕様:を規定として追加してもらおう、というような動きがあることを知りました。
一方で、限界耐力計算等で、往年の建築技術を現行法令下で実現する:法令をクリアできる・・・などという動きがあることも知っています(下註参照)。
しかし、私には、これはまったく理解できないのです。

なぜ、現行法令とは基本的・根本的に思想がまったく異なる技術を、現行法令下に添わせようとするのか、論理的に全く矛盾するからです。
理(すじ)が通らないではありませんか。

一方で、インターネット上には、いわゆる「伝統工法」を標榜する設計者や工務店のHPやブログが多数あります。
そこで目にしたのは、「伝統工法」の解釈が、実に多種多様であるという事実でした。

最も多く見かけるのは、無垢の木材、それも大寸の木材を「表し」で、つまり真壁でつくるいわゆる飛騨・高山の「民家」風のつくりをもって「伝統」とする例です。
そこから、往年の建物は無垢の大寸の木材を使っていたという誤解、あるいは、大寸にすることで強度が上がり現行法令の規定を充たすという誤解があることを知りました。

すでに見てきたように、住宅の建築で大寸の木材を使うようになるのは明治以降です。
人びとは、言葉の真の意味で、きわめて合理的です。
たとえば、大黒柱は施工上必要だから大寸なのであり、必要がなくなれば大寸の柱を使わなくなることを今井町の豊田家、高木家の例で観てきました。
大黒柱に「意味」を与えるのは、後世の人であることに留意する必要があります。
多くの事例で見たとおり、柱径は4寸2~3分が普通なのです(註 仕上り寸法)。

あるいはまた、手の込んだ継手・仕口を使うことをもって「伝統工法」とする方がたも居られます。
しかし、これも諸事例で観てきたように、多くの例は、きわめて簡単で仕事が容易な、しかし目的を十分に達することのできる継手・仕口を使っていることも見てきました。

浄土寺浄土堂然り、東大寺南大門然り、古井家、箱木家然り、龍吟庵方丈、光浄院客殿然り、そして椎名家、北村家、広瀬家、富沢家、島崎家・・・然り。
手の込んだ仕口を使った豊田家、高木家にも、そうする合理的な理由がありました。
これも考えてみれば当たり前です。

人びとにとって、と言うより、私たちすべてにとって必要なのは、所与の目的を、もっとも簡単にして容易に、しかも確実に達することだからです。
そうであるとき、不必要な材寸の木材を使い、わざわざ手の込んだ仕事をするわけがない。手の込んだ仕事=結果のよい仕事では必ずしもないのです。
よい結果をできるだけ合理的に得る、これがかつての工人たちの基本的な考え方であることを知る必要があります。
先の諸事例が、それを見事に示しているではありませんか。

私は、これらの事例から、その形や形式・技法そのものではなく、その背後にある、それをつくった人びと・工人たち、そしてそれでよしとした往年の人びとの「考え方」をこそ学ばなければならないと考えています。
現代風に言えば、ハードもさることながら、それを生んだソフトが重要である、ということです。

「伝統」はファッションではありません。
「伝統」とは、まさに「前代までの当事者がして来た事を後継者が自覚と誇りとをもって受け継ぐ所のもの」なのです。

半年の間、ありがとうございました。不明な点は、随意・随時、お尋ね下さい。 

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  註 配布資料の別のところで、限界耐力計算法等の「限界」についてふれていますので、
     その部分を以下に転載します。

     大工・棟梁たちは、木材が一本ごとに性質が異なるのが当然と考えています。
     木材は自然のもの、人間同様各々が異なっていて当然、それをどのように使うかが
     大工・棟梁の普通の技能と考えられていたのです。

     現在「限界耐力計算」法など、木造建築にかかわる種々な計算法が出現しています。
     しかし、いかなる計算法であれ、
     接合部ごとに、使われている各材料の特徴をすべて数値化しないかぎり、
     つまり、アバウトな数値に基づくかぎり、
     いかに演算が精密であろうが、対象とする架構の実体には対応していません。

     簡単に言えば、直観による工人の判断は、計算を超えて優れていたのです。
     本来、科学:science は、通常の感性が基本です。

このことを、もう少し詳しく説明します。
構造計算のためには、材料の諸性能を数値化する必要があります。
鉄やコンクリートは、その性能に大きなバラツキはない、つまり、ほぼ一定と見なすことができますが、木材はそうはゆかないのです。

たとえば、同じヒノキであっても、その強度自体、きわめて大きなバラツキがあります。その他の性質についても同様です。そこは、まったく人間と同じなのです。

現在の建築基準法では、たとえば強度について、これ以上低いものはないであろうと思われる数値にするように規定しています。一定の値にしないと計算ができないからです。しかし、それは、木材の実相とは大きく異なります。

ですから、本当に、実相に合うように計算するには、毎回(建物ごとに)、使用する木材すべてについて、性能の数値化をしなければならないのです。
そんなことはやってられない、というわけで、アバウトな数字で計算する、それが現在の木造についての構造力学であり、建築法令なのです。

したがって、計算は如何に精密であろうとも、実相に合わないことをやっていることになります。
計算が如何に正確で詳しくとも、意味がないことをやっている、ということ。

算数の問題で、計算は正しくなされているが、計算式をつくるにあたってミスがあったならば、それは正解にはならない、というのと同じことです。

この事実について、建築の専門家でさえ、気付いていない、忘れている、ということを、一般の方がたに、是非知っておいていただきたい、と常々私は思っています。

一方、すぐれた工人:大工・棟梁は、木材は一本ごとに性質が異なるということを知っていたがゆえに、その「事実」に従い、「直観」でことにあたっていたのです。実に科学的:scientific ではありませんか。

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