差鴨居の家々が並ぶ集落

2009-11-30 16:51:34 | 日本の建築技術
日曜日の天気予報は、はじめは「曇りのち雨」しばらくしたら「晴れのち曇り・雨」に変っていました。そして実際は、夕方まで晴。とりわけ午前中は、雲一つない快晴。そこで、連れ合いともども、犬たちと散歩に出ました。

近くに「まぎのうち」と呼ばれる集落があります。正式の住所名は別にあり、これは通称。
かなり広い小高い台地上を、いくつかの矩折(かねおり)はあるものの、ほぼ東西に幅1間半ほどの道がまっすぐに通り、その南側の、台地の終る斜面までは畑、道の北側に広大な「屋敷」、そのさらに北側背後には杉、檜、欅などの混交林があり、その一部を開いて北側にも畑が広がります。
道の曲がり角には、江戸の頃のものと思われる石の道案内や道祖神が立っています。

「まぎのうち」と呼ぶのは、かなり昔は一帯が「まぎ:牧」であったからだと思われます。近くにある「椎名家」(「日本の建築技術の展開-26・・・・住まいと架構・その3」)は、馬の放牧をやっていたと言いますから、出島一体では牧畜が盛んだったのかもしれません。
南側の畑の斜面の終わりには、遺跡地図上で中世~近世の墓とされる高低差60㎝ほどの小丘があり(下の写真)、そこだけは開墾されずに残されていますから、古い歴史が埋もれている一帯であることはたしかです。

           
            中・近世の墳墓跡 手前は最近までサツマイモ畑だった。

今は集落沿いの道は生活道路専用になり、南側の畑を横切って車も通る広い道路ができています。
下の写真は、あるお宅を、新しい道路から見たものです。
手前の畑は、今は何もつくっていませんが、秋までは、陸稲と落花生がつくられていました。



屋敷と道の境には、生垣で柵がつくられますが、最近は石の塀に変りつつあります。手入れが大変だからではないでしょうか。
写真の石塀の前を通っているのが、昔からの道です。

集落の家々は、一軒の茅葺を除いて瓦葺きで、多くは平屋建て、二階建てが数戸。
二階建てはその外観から、第二次大戦後に建てられたものと思われます。一時期、二階建てが流行った時期があるのです。どれも天守閣のように異様に背が高い。

平屋建てには、茅葺を小屋だけ変えたかな、と思われるお宅もありますが、多くは最初から瓦葺きで計画したのではないか、と思われます。
建てられた時期は、昭和の初めか大正、ことによると明治末もあるかもしれません。いずれ、調べてみたいとは思っています。

石塀のお宅に近付いてみます。



門を入ってすぐの右手には納屋があります。このあたりでは「までや」と言います。「までる」=「かたづける」という意味だと聞いたことがあります。
納屋の屋根の構成が美しい、見事です。何度か増築をしているらしい。

道は、車のとまっているあたりから先は、今は樹木が繁って通りにくくなっています。
門に近付いて、中を撮らせていただきました。



見えているのは東面、その一番奥に、少し引っ込んで「玄関」があります。
その部分は化粧の「数段の出桁」で屋根を受けています。他の部分の軒も「出桁」ですから、軒の出はかなりのものがあります。
軒高はそんなに高くありません。見ていて安心できる、馴染める大きさです(ある時期から、やたらに背丈を高くすることが流行ります)。

東面のガラス戸の内側には「縁側」があり、「縁側」は矩折(かねおり)に南面へ回っています。
「縁側」がLの字型に付いた典型的な農家住宅。
「縁側」の内側には、多分、二部屋続きの座敷:接客空間があるはずです。
建てられた頃には、ガラス戸はなく、雨戸があるだけだったかもしれません。
「縁側」のL字は、全面が開口部です。

この「縁側」のガラス戸の鴨居位置に、全長にわたって入っているのが、「差鴨居」です。これが、全面開口を可能にしているのです。

「差鴨居」は「縁側」に沿って途切れることなく続き、玄関のところでも矩折に曲がり、玄関の引き戸の上の鴨居:「差鴨居」に連なっている筈です。
そして、一般的な例から推察して、「座敷」の部屋境(「縁側」側も含め)「差鴨居」が入っているものと思われます。

「差鴨居」から小屋の「桁」までの間:「小壁(こかべ)」は、写真で分るように、壁にするか欄間にするか、まったく任意です。
つまり、「小壁」を全面壁にしなくても、構造的に大丈夫なのです。

「方丈建築」や「客殿建築」(いわゆる「書院造」)では、内法位置に「内法貫」を設け、その上の全面壁に仕上げた「小壁」部分、それと「拮木(はねぎ)」でつくった四周にまわした軒(庇)部の架構、この両者で全面開口を可能にしていると考えられますが(下記註参照)、「差鴨居」方式では、「差鴨居」を設けるだけで、全面開口が数等容易に可能となり、しかも「小壁」の扱い:壁にするか欄間にするか:は、まったく任意なのです。

   註 「日本の建物づくりを支えてきた技術-29・・・・継手・仕口(13):中世の様態・5」
      「建物づくりと寸法-1・・・・1間は6尺ではなかった」
      「建物づくりと寸法-2・・・・内法寸法の意味」

このお宅は、ある部材だけが際立って目に飛び込んでくる、ということのない、これ見よがしのところのない、大らかで素直なつくりです。
各部材が「全体」に馴染んでいる、と言ってもよいかもしれません。
こういうつくりは、一般に、建設時期の古い建物に見られる傾向です(不必要な大きさの材、不必要な量の材料は使わない)。

    こういうつくりの「形式」が定着してくると、「目立ちたい」という気持ちが前面に出てくる、
    そういう傾向が一般にあるように思います。
    人の性(さが)なのかもしれません。今の世の言葉で言えば「差別化」です。
    そんなことをしなくたって、「個性」は自ずと滲み出てくるもの、と思うのですが・・・。
    こういう性(さが)は、建て主だけではなく、つくる大工さんにもあるようです。
    天守閣のような二階建てをつくるのも、その一例と言えるでしょう。


下は、この建物の南面を、塀の外から見たところです。



この集落には、このお宅と同じ姓の方がたくさんおられます。これも調べなければ分りませんが、屋敷構えや建物のつくりなどから、このお宅は「本家」にあたるのではないか、と勝手に想像しています。


このお宅を離れ、道を西に向います。たいてい建物が奥に建っているので、姿が良く見えません。
神社の隣りに、ほぼ全体が見えて写真の撮れるお宅がありました。



最初のお宅に比べ、規模は小さいですが、玄関のつくり方は同じです。
ここでも同じように「差鴨居」の回ったL字型の「縁側」がつくられています。
ただ軸部に対して、小屋:屋根の大きさ:被りが少し大きすぎる、頭でっかちの感があります。軒高と軒の出の関係だろうと思います。

この集落にはもう一つ多い姓がありますが、このお宅は、その「本家」筋ではないかと思われます。

さらに西へ進み、集落の道が終るあたりにも写真の撮れるお宅がありました。
下は、そのお宅の門から見た正面と、南面の写真です。





このお宅の建設時期は、比較的新しい、もしかしたら戦後かもしれません。
「縁側」をL字型にまわすなど、基本的には、先の二軒のお宅と同じですが、玄関のつくり方が大きく違うからです。
切妻屋根の突き出し部分を設け、それを玄関にあてています。
このやりかたが何時頃から始まったのかはよく分らないのですが、二階建ての建物は、皆この方式です。

突き出し部の納まりに苦労していますが、どういうわけか、この形式は今でも望まれているようで、最近つくるお宅にも多く見かけます。
「方丈建築」の入口がこれに似てます(前掲註参照)。言うなれば、はるか昔の「中門廊」への先祖返り?

若干、必要以上に大きな材かな、とは思いますが、この建物の写真が、一番「差鴨居」全体がよく見えます。つい最近、まわりの道路拡幅工事があり、植えられていた庭木の多くが移設されたため、建屋が丸見えになったからです。


本当は、それぞれのお宅に伺い、謂れをお聴きすればよいのですが、まだこの地に暮して10年足らず、もう少しお付き合いができるようになったら、お尋ねしてみようか、と思っています。

以上、散歩がてら、「差鴨居」を使ったお宅を観てきた、その報告です。

書き忘れましたが、これらの建物は、皆、礎石建(石場建て)、土台を使っていますが、礎石に緊結するようなことはしていません。
この一帯は、「幸いなことに」都市計画区域外、確認申請が要りません(工事届だけ)!

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2 コメント

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伝統建築/棟梁/住い (久保恭一)
2009-11-30 19:52:41
今晩は
筑波地方、民家のたたずまいの様子、ありがとうございます。

差鴨居工法に関し、私なりの思いを述べさせていただきます。

http://kino-ie.net/report_091.html
のページで、”伝統構法”(鳥瞰図)に見られます。
また、このHP ”そもそも話/民家実測 ”へ進み ↓
http://kino-ie.net/somosomo_ext011.html

5)立面図・矩形図(;まま)/南立面図クリック
築80年の山梨の民家だそうです。

伝統構法の建築物は地方性があり、何か決まった構法(工法)がないと良く言われます。
私はそれはそれでいいことだと思っています。
悪いと考える人は、決まった構法-全国一律の構法だけを求めているのではないでしょうか。

富山地方の組み方、山梨地方の組み方、違っていて何が問題でしょうか。
大切なことは、その建物に住む人(利用する人)の安全を考えた組み方であれば良いと思っています。そのようにして、日本各地の
伝統建築物は棟梁と呼ばれる人達により受け継がれて来たと考えています。

違っていることに問題があると考える人は、単に自分の理解(統一的基準)を超えているから問題だ と言っているに過ぎないと思っています。

乱文失礼致します。
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「方言」と「標準語」 (筆者)
2009-11-30 22:42:56
コメントありがとうございます。

ある世代以前の方が知っている「標準語」という言葉があります。明治以来、政府が進めてきた、各地域の言葉:「方言」を一本化しようという試み。目的は、「制御」が容易になるからです。
今は「共通語」という言い方になり、むしろ「方言」を尊重する方向になってきています。

建物をつくる技術も、当然、地域で異なります。あたりまえです。
ご紹介の「山梨」の住まい、これは、かつての養蚕で生計を立てていた地域の住まいだと思います。
少しずつ姿を変えながら、信州・諏訪~甲州峡北~甲州東部~甲州南部(富士山麓)~武州・秩父~上州・西部~そして信州・佐久と、類似の養蚕農家を観ることができます。山越えの交流があり、それをお互い地域の状況に合わせて展開させていったのです。
甲州~武州~信州の間には甲武信岳を盟主とする山塊が、信州でも諏訪~佐久には八ヶ岳連峰という山塊がありますが、そこにはいくつもの峠道があります。それはかつての交流がつくりだしたもの。
この一帯は本当に素晴らしいところ。かつて車で歩き回り、写真もあるのですが、整理してない!!
いずれ何とかしたいと思ってます。

建築の世界も「方言」、そしてその背後に共通して在る「こころ」を大事にしたいと思います。それが「伝統」です。
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