一昨日、本当に久しぶりに東京へ出た。今年になって初めて・・。
かつての「仲間」が30数年ぶりに会う会合。浦島太郎だ、などと言いながら集まった。
しかし、東京の街並み、家並み、というよりビル並みの方が浦島太郎だった。久しぶりの街の風景に、目を白黒するばかり。僅かな間に、乱雑さが激しくなっていた。と言うより、設計者が、ますます勝手をし放題になっているように思えた。
何よりも不快だったのは、外面にネットやフィルムを張ったような装いの建物、意味不明な曲面のガラス面を差しかけた建物の多さだ。
つくば市のある大学にも、都会の流行に負けじとつくったのではないかと思われる建物が最近建ったが、ほぼ全面、真っ向から西日を受けるつくりで、その面全体に「ネット」が張られている。どうやらそれが「デザイン」の目玉らしい。というのも、そのほかの面は、どう見ても、気配りが感じられないからだ。このネットは、西日よけのためらしい。しかし、何も西日に面するようにしか建てられない敷地ではない。そんなことをしなくても十分西日を避けて建てられる。とすると、この設計者の目的は「ネットを張ってみたい」ということにあったことになる。
農村には、防風ネット、防鳥ネット、遮光ネット、遮光フィルム、マルチ用フィルム、シート・・など、各種各様そして色とりどりのネットやフィルムそしてシート類がある。農業者は、それらを「用」に「応じて」使い分ける。その使い分けの根拠は、農業の必然だ。風当たりが強い畑には防風ネット、しかも風の強さに応じて網目を選ぶ。鳥には防鳥ネット、これも鳥に合わせる・・・。どうしてもこれを使いたい、使ってみたい、というような選択は、無意味だから、しない。だから、それらが用いられた田園を見ると、地勢や何をつくっているのか、おおよその見当がつく。
ところで、ある土地・場所に建物をつくるということは、その「ある土地」の「既存の環境を改変する」ことだ。そして、既存の環境の改変は、単に物理的な環境のみならず、その場所に暮す人びとの暮しそのものの改変でもある。
かつて、人びとは、このような改変を行おうとするとき、その土地に宿る神に、改変の許しを請うた(日本では、すべてのものに神の存在を見た)。それは、その土地は、あくまでも神のものであって、自分たち個々人のものではない、使わせていただくのだ、という認識だ。そして、そのために営まれたのが「地鎮祭」であった。無断借用・使用、妥当ではない使用は神の怒りに触れる、それが転じて現今の工事の無事祈願の儀式となったのだ。
かつては、たとえ一個人のものであっても、建物づくりは、そこの既存の環境を見据えた、言い換えれば、そこに暮す人びとを見据えたものに自ずとなっていたのである。だからこそかつての街並みは暮しやすいのであり、日照権騒動などが起きるわけがないのである。つまり、「個」のものでありながら、「公」のものに自ずとなっていたのだ。
しかしながら、その意味が分からない装いを持つ建物の、そうなる必然・理由は、私には、設計者の《造形意欲》あるいは《差別化願望》にしか求めようがない。建物づくりとは、そういうことだったのだろうか。
私のような浦島太郎には、それはまちがいとしか映らない。もしも、どうしても自らの《造形意欲》を示し、《差別化》を表してみたいなら、自らの金で、普通の人の目に触れないところで(普通の人に迷惑をかけないところで)やってくれ!、同好の士の間だけでやってくれ!と言いたくなる。
昨年12月8日、ベルラーヘの言動を紹介した。彼は19世紀末のヨーロッパの建物は虚偽に満ち溢れている、過去の各種の様式を、その意味も顧みずに皮相的に寄せ集め貼り付けた建物が横行している、として批判した。
もしも彼が今の姿を見たら何と言うだろうか。19世紀末には、まだ過去(の様式)との何らかの脈絡はあった。しかし、今は、何の脈絡もなく、支離滅裂。
19世紀末に生まれ、20世紀初頭に生涯を閉じたオーストリアの詩人リルケに、次のような詩がある。彼もまた、世紀末の世の様相に批判的だった。
・・・・・
今の世では、嘗てなかったほどに
物たちが凋落する――体験の内容と成り得る物たちがほろびる。
それは
それらの物を押し退けて取って代るものが、魂の象徴を伴はぬやうな
用具に過ぎぬからだ。
拙劣な外殻だけを作る振舞だからだ。さういふ外殻は
内部から行為がそれを割って成長し、別のかたちを定めるなら、
おのづから忽ち飛散するだろう。
鎚と鎚とのあひだに
われわれ人間の心が生きつづける、あたかも
歯と歯とのあひだに
依然 頌めることを使命とする舌が在るやうに。
・・・・・・
「第九の悲歌」より
かつての「仲間」が30数年ぶりに会う会合。浦島太郎だ、などと言いながら集まった。
しかし、東京の街並み、家並み、というよりビル並みの方が浦島太郎だった。久しぶりの街の風景に、目を白黒するばかり。僅かな間に、乱雑さが激しくなっていた。と言うより、設計者が、ますます勝手をし放題になっているように思えた。
何よりも不快だったのは、外面にネットやフィルムを張ったような装いの建物、意味不明な曲面のガラス面を差しかけた建物の多さだ。
つくば市のある大学にも、都会の流行に負けじとつくったのではないかと思われる建物が最近建ったが、ほぼ全面、真っ向から西日を受けるつくりで、その面全体に「ネット」が張られている。どうやらそれが「デザイン」の目玉らしい。というのも、そのほかの面は、どう見ても、気配りが感じられないからだ。このネットは、西日よけのためらしい。しかし、何も西日に面するようにしか建てられない敷地ではない。そんなことをしなくても十分西日を避けて建てられる。とすると、この設計者の目的は「ネットを張ってみたい」ということにあったことになる。
農村には、防風ネット、防鳥ネット、遮光ネット、遮光フィルム、マルチ用フィルム、シート・・など、各種各様そして色とりどりのネットやフィルムそしてシート類がある。農業者は、それらを「用」に「応じて」使い分ける。その使い分けの根拠は、農業の必然だ。風当たりが強い畑には防風ネット、しかも風の強さに応じて網目を選ぶ。鳥には防鳥ネット、これも鳥に合わせる・・・。どうしてもこれを使いたい、使ってみたい、というような選択は、無意味だから、しない。だから、それらが用いられた田園を見ると、地勢や何をつくっているのか、おおよその見当がつく。
ところで、ある土地・場所に建物をつくるということは、その「ある土地」の「既存の環境を改変する」ことだ。そして、既存の環境の改変は、単に物理的な環境のみならず、その場所に暮す人びとの暮しそのものの改変でもある。
かつて、人びとは、このような改変を行おうとするとき、その土地に宿る神に、改変の許しを請うた(日本では、すべてのものに神の存在を見た)。それは、その土地は、あくまでも神のものであって、自分たち個々人のものではない、使わせていただくのだ、という認識だ。そして、そのために営まれたのが「地鎮祭」であった。無断借用・使用、妥当ではない使用は神の怒りに触れる、それが転じて現今の工事の無事祈願の儀式となったのだ。
かつては、たとえ一個人のものであっても、建物づくりは、そこの既存の環境を見据えた、言い換えれば、そこに暮す人びとを見据えたものに自ずとなっていたのである。だからこそかつての街並みは暮しやすいのであり、日照権騒動などが起きるわけがないのである。つまり、「個」のものでありながら、「公」のものに自ずとなっていたのだ。
しかしながら、その意味が分からない装いを持つ建物の、そうなる必然・理由は、私には、設計者の《造形意欲》あるいは《差別化願望》にしか求めようがない。建物づくりとは、そういうことだったのだろうか。
私のような浦島太郎には、それはまちがいとしか映らない。もしも、どうしても自らの《造形意欲》を示し、《差別化》を表してみたいなら、自らの金で、普通の人の目に触れないところで(普通の人に迷惑をかけないところで)やってくれ!、同好の士の間だけでやってくれ!と言いたくなる。
昨年12月8日、ベルラーヘの言動を紹介した。彼は19世紀末のヨーロッパの建物は虚偽に満ち溢れている、過去の各種の様式を、その意味も顧みずに皮相的に寄せ集め貼り付けた建物が横行している、として批判した。
もしも彼が今の姿を見たら何と言うだろうか。19世紀末には、まだ過去(の様式)との何らかの脈絡はあった。しかし、今は、何の脈絡もなく、支離滅裂。
19世紀末に生まれ、20世紀初頭に生涯を閉じたオーストリアの詩人リルケに、次のような詩がある。彼もまた、世紀末の世の様相に批判的だった。
・・・・・
今の世では、嘗てなかったほどに
物たちが凋落する――体験の内容と成り得る物たちがほろびる。
それは
それらの物を押し退けて取って代るものが、魂の象徴を伴はぬやうな
用具に過ぎぬからだ。
拙劣な外殻だけを作る振舞だからだ。さういふ外殻は
内部から行為がそれを割って成長し、別のかたちを定めるなら、
おのづから忽ち飛散するだろう。
鎚と鎚とのあひだに
われわれ人間の心が生きつづける、あたかも
歯と歯とのあひだに
依然 頌めることを使命とする舌が在るやうに。
・・・・・・
「第九の悲歌」より
世の中、何でも計算しなけりゃ、というものだから、
木造建築も計算で設計しようということになります。
しかし、木は、人間と同じで、1本ずつ異なります。
一様に扱うことはできません。
なぜなら、計算するには、1本ごとに、その性質を数値化しないと、正確な答は出ません。
1本ずつなんてできない、というわけで、
数値を一定にしようということになります。
何のために?計算を楽にするために、です。
そのときからすでに、扱っているのは、
本物の木ではなくなるのです。
医学の世界で、「疫学的研究」というのがあります。
いわば、「経験」を統計的に扱う方法です。
薬の効能などを調べるときなどにも使われる方法のようです。
だから私は、かつての工人の知恵の集積を、
その方法で扱う、
つまり、観察を続けるのが木造建築では
最良の方法ではないかと考えているのです。
「在来工法」の問題点を、書いていますので、
読んでみてください。
これからもよろしく。
神栖市の2級建築士です。
“耐力壁依存工法”に納得できず、
“伝統木構造の会”で「許容応力度設計法」の
講座を受講しましたが、にわか建築士には
ムズかしすぎました。
まずは“木”を知らなくては っと思ってます。
とりあえず、関東の清水寺と椎名家を
見に行ってきます。