私の住まいは、広めの町道から30mほど入ったところにある。町道からは少し下り坂、幅は5m強。天気のよい日には、下ってゆくと畑や林を前景に、真正面に筑波山。一昨日は六月というのに秋のように空気が澄んでいたから、いつもよりも間近に見えた。
筑波山の姿は、二つの峰がくっきりと屹立して見える石岡からの眺めが一番よい(特に恋瀬川から)と私は思うが、当地からでも、そこまではいかないが、結構いい眺めだ。
大分前のこと、訪ねてきた人が、筑波山を望めるようにつくらなかったの?と訊いてきた。その人は建築系の人。建築系の人は、たいてい、いい景色があると、それを取り込んで建物から望めるように設計するもの、と思う人が多い。いわゆる借景。
上の写真は、京都北郊、国際会議場のある宝ヶ池の西にあたる幡枝(はたえだ)の「円通寺」の書院から、庭越しに見た比叡山。最初から、このように風景を切り取り、取り込むことを意識してつくっている。これは、後に修学院離宮を営む「後水尾(ごみのお)上皇」のつくった山荘である。
修学院ができてからは、禅寺として保存され、現在に至っている。古来、「借景」の典型として有名である。
この写真は、大分古いもの。「原色日本の美術10 禅寺と石庭」:初版1967年:所載の写真(原版が2頁にわたり大きいので、残念ながら全部はスキャンできず、おまけにまんなかにスジが入ってしまった)。つまり、40年以上も前の姿。
今は、このようには見えなくなった。宝ヶ池のあたりには、国際会議場近くに高層のホテルが建ち、円通寺寺域まで、住宅の波が押し寄せて、前景の竹林ももうすぐ開発でなくなり、当初の「借景」の寿命が切れるのも遠くはない、とのこと。
ゆえに、寺では、これまで禁止していた写真撮影を、見納めとして許可しているという(円通寺のHPには、書院の縁と鴨居がつくる額縁に入った比叡山の写真が載っている)。
註 円通寺の「借景」をだめにしてしまったホテルや宅地開発は、
比叡山の眺めを「売り」にしている。
東京国立の《マンション》が、その建設が破壊することになる
大通りの「景観」を売りにしているのと同じ。
こういう絵に書いたような矛盾が平気で通る世の中。
ところで、最近の開発以前にも、あたりには古くからの集落がひっそりと散在していた。今は、それに接して新興の住宅が建っているが、もちろん、古くからの集落は、あたりを歩くだけでも心和む、新興住宅地とは歴然として異なる雰囲気のある家並みである。
そういう集落の住まいは、比叡山にどう対しているのだろうか。
これは、あたりを歩けば直ちに判明する。
古くからの住宅には、比叡山を取り込むようなつくりの住まいは、一つもないと言って過言でない。言ってみれば、そういうつくりは「円通寺」だけなのだ。
これと同じようなことは、景勝地をかかえる別荘地、たとえば浅間山の山麓などでも見ることができる。山荘の多くは浅間山の景観を取り入れることに精を出すが、地元に暮す人の住まいには、そんなつくりはない。
考えてみれば、これはあたりまえ。その地に常住する人たちが目にする比叡山と、他の土地からときどき訪れる人の目にする比叡山とは、まったく意味が違う、生活のなかでの重さが違うからである。
この地幡枝に暮し続ける人にとって、比叡山は地面の続き、いつも見ている。意識しないで見ている。そこは後水尾上皇とはまったく違う。
しかし、もちろん、比叡山なんかどうでもいい、というわけではない。
ここに暮す人が比叡山を意識的に感じるのは、それは、この地を遠く離れたときである。「遠くに在りて想う」ときに忽然として比叡山の姿が脳裡に浮かんでくるのである。言ってみれば、比叡山は、人々のなかに深く沈みこんで存在している。
だからこそ、住まいの中からいつも比叡山を眺める、などというつくりは必要ないのである。
このことは、ある土地に住まいをつくるとの「本質」に触れているように、私は思う。それについて次回も触れる。