1.北アルプス山麓の温泉宿
北アルプスの麓にある温泉旅館、その北側の昼なお暗い布団部屋のような部屋が、最高の部屋として扱われるようになったのも、大正・昭和の頃だそうだ(昨日紹介の「残雪抄」中にある話)。
その部屋の窓から、北アルプスが一望に見えるから。
それまで、この旅館の客は、湯治客が主。湯治は、今の「温泉めぐり観光」とは違う。当時は、農家の人たちにとっては年中行事の一つ。つまり「日常」の一部。つかれた体を休めるための長期滞在。北アルプスを眺めることなど、脳裡にはない。
ところが、その頃から、都会に暮す人の間に、西欧流のtouring:《観光旅行》が流行りだし、そういう都会の客が旅館を訪れるようになった。そして、彼らが部屋にいても北アルプスを眺めることを望むことを知った館主が、布団部屋を改造したのである。
そして、湯治客主体であった旅館には、宿泊棟と湯治棟の二つを設ける例が増えてくる。
青森の酸ヶ湯(すかゆ)温泉、蔦(つた)温泉、近いところでは群馬の四万(しま)温泉などはその一例。
湯治棟には自炊室がある。そして、朝夕、日用品・食料品の行商が、泊り客を訪ねて歩く。御用聞きもする。
あるとき、酸ヶ湯温泉で、大きな布団包みが玄関先においてあるのを見たことがある。それも一つや二つではない。布団も自前、持参してくるのだという。布団だけが一足先に宿に到着したところだった。長逗留なのだ。
時代は変った。温泉は、湯治主体から「観光」主体に変ってもやむを得まい。しかし、多くの温泉場は、「観光」のために、もともとの町並みが壊されだしている。
2.「大内宿」のRC造の住まい
栃木県の鬼怒川上流、藤原ダムのあたりから山王峠を越え、阿賀野川の上流:大川沿いに会津盆地へと向う「会津西街道」(裏街道ともいう)が、あと一山で会津盆地というあたりの山間に、「大内宿」という宿場があった。
今の街道は大川沿いに会津盆地へ向うのだが、江戸時代は増水の際に通行不能に陥るため、最後の行程は山越えで、その山越え前にこの宿場、大内宿があったのである。
しかし、明治政府が任命した県令・三島通庸が交通網の大整備を行い、それにより街道が大川沿いに付け替えられ、大内宿は一挙に寂れてしまう。
大内宿は、中山道の宿場町とは違い、上の写真のように茅葺の宿屋が並ぶ。街道付け替えで、宿屋は廃業、農業主体の生活となったのだが、改造もままならず、昔の姿のまま残ってしまった。それが1960年代に「発見」され、宿場の典型としての歴史資料的価値が話題になり、現在は「伝建地区」(伝統的建造物群保存地区」)になっている。
註 上の写真は、「伝建地区」指定前の姿。訪ねて来る人はまばら。
それでも、右の写真には、「みやげもの」を売っている姿がある。
「伝建」の指定を受ける大分前、喜多方へ行く途中で、何度か訪れたことがある。今のように「観光客」であふれるようになる前である。
宿場のなかの、やや上り坂の道を歩き、街道が山にぶつかる少し手前に(その先は廃道で行き止まり)、新築のRCの建物があった。土地の大工さんの住まいだという(大工さんが施主、というのが面白い。今どうなっているかは不詳)。
今なら、つまり「伝建地区」になってからでは、町並みを乱す、として、とてもではないが建てられなかった建物。
たしかに、陸屋根の建物は異質ではある。しかし、RCは絶対にだめなのだろうか。
町並みというのは、一時にできあがるものではない。数十年、ときには100年のオーダーでできる。そして、建物が常に変るのが木造主体の日本の町並み。「大内宿」は、たまたま、そういった時を経ても茅葺が続いていただけで、もしも宿場が繁盛し続けていたなら、おそらく、少しずつ瓦葺きに変っていたにちがいない。そして、それを誰も町並みを壊す、などと言って非難することもなかっただろう。
それは、材料が変っても、「つくりかたの根底にある考え方」は変らなかったはずだからだ。かつては、新築にあたって(もちろん改築にあたっても)、常に既存の近隣あるいは近接する方々の住まい・暮しを尊重する、損なわない(自己の権利だけを主張しない)のが「常識」だったのだ。
この「常識」は、各地域で、少なくとも、昭和の初めごろまでは健在だった。
関東でも、明治期の建物、大正の建物、昭和の建物・・(ときには江戸期の建物もある)と、外観も材料も異なる建物の並ぶ町並みが各地にあるが(群馬の桐生など)、少しも違和感がない。これがあたりまえ。これであたりまえ。
だから、大内宿の大工さんの建てたRCの住宅を、RCというだけでけしからん、というのは、本当は見当違い。昭和の初めなら、違和感のない建物を、RCでつくったはずだからである。残念ながら、そこで見た建物は、いささか違和感を感じるものだったが・・・。
多くの「伝建地区」で行われているのは、いわば「時間を止める」作業。古き時代の姿を求めて「観光客」が来て金をおとす。町が潤う・・。だから、新たに建てる建物は、既存の建物(つまり「指定」をうけた建物)同様の建物にすることを求められる。ゆえに時間が止まる・・。先に触れた「奈良・今井町」もそうなった。
「伝建地区」になってしばらくして訪ねたら、大内地区にあった中学校が、統合で廃校になり、子どもたちは、夏場はスクールバスで、そして冬場は下の町の寄宿舎から、下の町の学校へ通うようになっていた(大内は、大川沿いからは、直線距離では大したことはないが、かなりの急坂を登らなければならない高地にある)。過疎で学校の維持費が大変だからだという。
その一方で、「観光客」目当ての本陣の建物の復元が始まっていた。
私には納得がゆかなかった。
これは本当に「まちづくり」と言えるのだろうか。これでは「映画村」だ。今も、今の人が暮している、このことが忘れられている。