風景・環境との対し方-2・・・・観光

2007-06-20 13:49:04 | 居住環境
臼井吉見(うすい・よしみ)といっても、今や知る人が少ないだろう。
信州安曇野の出身、1940年、同郷、同年の古田晁の創設した「筑摩書房」に唐木順三とともに参画、戦後社会に影響を与えた同書房の評論誌『展望』の編集長をつとめた評論家である。
晩年に著した小説『安曇野』全五巻は、安曇野を舞台に、明治・大正・昭和にかけての文人たちの活躍をとおして世相を語った大作である。

臼井吉見の同じく晩年の著作、随筆集『残雪抄』のなかに「幼き日の山やま」という一文がある。そのなかに次のような一節がある。

・・・宇野浩二に「山恋ひ」という中編小説がある。諏訪芸者と、作者とおぼしき主人公との古風な恋物語である。この主人公が、諏訪の宿屋の窓から、あたりの山々を眺める場面が小説のはじめに出てくる。湖水の西ぞら、低くつづく山なみの上から、あたまだけのぞかせている一万尺前後と思われるのを指して、あの高いのは何という山かね?ときかれた番頭は、さあ?と首をかしげる恰好をして、たしかに高い山のようですが、名前は存じませんという。木曾の御嶽ではないのかねとかさねて訊くと、さあ、そうかもしれませんね、ともう一度首をひねってみせる。君はこのごろどこかよそから来たのかね?と問うと、いいえ、私はこの町の生れの者でございます、と答えて、気の毒そうな顔つきをするのである。
この小説の書かれたのは大正の中頃だが、当時の読者だって、この番頭変ってると思ったにちがいない。いまの読者なら、なおさらのことだ。・・・
 
臼井は、番頭と客の喰いちがいについて、次のように続けている。

・・・信濃のように、まわりを幾重にも山にかこまれている国では、この番頭のようなのは、当時としては決して珍しくはなかった。むしろあたりまえだったといってよい。生れたときから、里近くの山に特別に深く馴染んでいるので、奥の高い山などには、とんと無関心で過ごしてしまうのが普通だった。わらびを採り、うさぎを追い、きのこを探し、すがれ蜂を釣ったのは、みんな里近い山でだった。近くの山なら、松茸はどこどこの松の根もとだとか、うさぎの道は、どこそこの藪かげだとか、知識経験の豊富な蓄積があった。おとなたちが、木を伐り、薪を集め、炭を焼くのも、これまた近くの山だった。・・・

   註 いま盛んになっている「里山復活運動?」も、この時代の「里山」を
      どこまで承知の上での話なのだろうか。

では、客は何だったのか。
端的に言えば、彼は、「名前でものを見る癖」あるいは「知識でものを見る癖」をもった「近代人」のはしりだったのだ。
彼は、信州の南には「木曾の御嶽山」という名峰がある、という《知識》をどこかで仕入れた。諏訪に行けば、それを眺めることができるはずだ。
だから、宿屋の窓から、彼はそれを探す。そればかりを探す。だから、前景をなす低い山なみなどは目に入らない、どうでもよかったのである。そしておそらく、もしも御嶽を視認できたなら、それで彼は「安心」したのだろう。

番頭は、といえば、彼も御嶽山の名は知ってはいたが、目の前に広がる風景のなかのどれがそれか、などということには全く関心がなく、比定する必要も感じていなかった。つまり、どうでもよかった。それが彼の暮しそのものだったからだ。

これが当世の番頭なら、逆に、とうとうと《観光案内》をしたにちがいない。なぜなら、客の大半が、この客同様の、あるいはそれ以上の「求め」をする時勢だからだ。

「観光」という語は、「新漢和辞典」(大修館書店)によれば、①「他国の文化を観察すること」、②転じて「他国の風景などを見物すること」、とある。他の辞書もほとんど同じ。
①の意はどこかへいってしまい、今は、「観光」と言えば、この転じた後の②の意で使われるのが普通である。
そして、この一文には、世の中一般に②の原義から転じた意が広く通用するようになる転換期の様相が、書かれていると言うことができる。

その結果?、今では、他国・他地域を「観光」しても、その地の「文化」を理解するには至らないで終るのが普通になった。つまり、「物見遊山」で終わってしまう。

   註 「光」には、「文物の美」「文化」の意がある。
      同様の義の語に「観風(かんぷう)」がある。
      その場合の「風」は風俗、風習といった意。
      「文化」とは、①文徳:人を心服させる学問・教養の徳:で
      教化すること、②学問・芸術・・などが進歩して、世の文明が
      開けてゆくこと。文明開化。③人間が自然状態から脱し、
      自然に手を加えその理想を実現してゆくこと。またその結果
      得られたものの総合体。cultureに相当。

先回の話と関連するのだが、私たちの普通の暮しは、本来、先の文に書かれている状況が普通。景勝だとか名峰だとか・・とは、直接的に関係ない(もちろん、当時のように山に入るわけではないが・・)。
しかし、ややもすると、「関係させなければいけない」かのように思われるのが現在。

「まちづくり」と称して地域を「観光」で売り出そう、という動き、「観光」で訪れる人が多いと「まちづくり」になるのか、私はいつも疑問に思う。
この発想は、「まちにある『もの』」を見に来る人が金を落してくれること、まちに多くの金が落ちることを期待してのものだ。
なるほど金が落ちるかもしれない。金はないよりある方がいい。しかし、それがどのように「まちづくり」につながるのか。その「脈絡」をきいたことがない。そこでの商売が潤ったところで、それだけで「まち」がつくられるわけがない。

ところで、対象になる「まちにある『もの』」とは何か。多くの場合、かつてつくられた建物や、それらの織り成す家並み。いわゆる「伝建地区」などはその典型。
見る(「観る」ではない)対象が『もの』だから、新しくつくられる建物が、その家並みとは違う形だと家並みを壊すとの理由で、古風になぞらえることが要求される。
これが実はおかしい。
これらの建物、家並みは、そんな制約なしに建てられ、つくられてきたのだからである。そしてだからこそ、今見る《商品価値》が生まれたのだ。

本当の「観光」ならば、なぜそれらの建物、家並みが、今でもいわば「観賞に堪え得る」ものになり得たのか、について考えなければならない(そして、昨今つくられる建物、家並みが、なぜ観賞に堪えられないのか、を)。
多分その先に、今、建物をつくるにあたり、何を考えなければならないのか、何が欠けていたのか、が見えてくるはずなのだ。
そのようにして対象に対することができたとき、それは、「見る」ではなく「観る」になり、「観光」の原義に戻ることができるだろう。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする