いろいろなカタログが送られてくる。その中で最近目立つのが、いわゆる《免震》装置・器具である。
最近送られてきた木造軸組工法用の器具は、公的機関の認定証もついているのだというが、傑作であった。
それは、柱を土台に立て、その足元に土台と柱のつくる角に、板バネと樹脂発泡剤とおぼしき材とを組合せた装置を取付け、地震の際柱脚に生じる動きを逃げようといういわば簡易ダンパーらしい。土台と柱を固く接合すると意味がないからだろう、V字金物で接合するだけのようだ(カタログに載っている写真を載せればよいのだが、それでは「問題」を起すのでヤメ)。
要は、普通は基礎とその上の架構の間を浮かせようというのに対して、土台の上の柱を浮かせようというものらしい。
認定証をもらっている以上、これを柱脚にセットすると、建物が免震になる?!
架構全体が浮いているのならまだしも、どうして架構を構成する一部分が浮いていることで架構が浮く、ということになるのだろう。認定者は何を見ているのだろう。
どうして、部分が安全ならば全体が安全である、と言えるのだろう。
2003年の末に、小舞土塗り壁の耐力壁としての認定がなされた。その解説書によると、その認定は、小舞土塗り壁を設けた架構の実験体(もちろん架構の一部分である)に力をかけて得られたデータが基になったらしい。
これも、部分がよければ全体もよくなるという「部分絶対」信仰と言ってよい。
実験をすれば科学だ、などと考えてほしくない。実験は、それをするにあたっての「仮説」が重要。その「仮説」が、「現象の全体」を洞察したものでなかったならば、ただの遊びに過ぎない。いや、遊びにもならない、無駄だ。
仮に、「耐力のあると認定された部分」を組込んだ架構をつくったとしよう。そして、それを組込めば全体も安全になると思い込み、他の部分の組み方は適当に(いい加減に)済ませたとしよう。実はこれが法令の推奨する「在来工法」そのものだ。しかし、こうしてつくられた架構が実際に地震で揺れたらどうなるか。その結果は、目に見えるではないか。
社会は、体力のある人間と、弱い人間とで構成されている。別の言い方をすれば、老若男女で構成されている。しかし、社会は、体力のあるものだけで維持できる?そんなはずはない。そうだとしたら、世の中、最終的に、唯一絶対の最強力者だけが残ることになる。つまりそれは社会では、もはやない。
しかし今、世の中、そのような志向・傾向が強い。強いものが生き残る。弱いものは消えてなくなってあたりまえ・・。いわゆる《市場原理》。
実は、建築構造についての考え方では、かなり前から、この「思想」が優先されてきた、その意味では《先進的》!
落ち着いて考えてみよう。机の上ではなく、現場で考えてみよう。
このような考え方は、まさに「ご都合主義」。分らないことに目をつむり、分ると思えることだけで、ものごとを理解?しようとする。それは科学ではあるまい。分らないことを分らないと認めること、それこそ科学なのだ。なぜなら、それ以後、分らないことを分ろうと努めるからだ。
その意味では、常に現場で考えてきた近世までの工人たちの思想は、きわめて健全だった。現場では「ご都合主義」は通用しない。だからこそ、見事な技術体系を生み出したのだ。
いろいろな「免震構造」を考えるのも結構である。
しかし、その前に、あるいは同時に、古来地震が頻発するこの国で培われてきた技術体系に、ほんの少しでも、目を向けてみてはいかがなものか。
最近送られてきた木造軸組工法用の器具は、公的機関の認定証もついているのだというが、傑作であった。
それは、柱を土台に立て、その足元に土台と柱のつくる角に、板バネと樹脂発泡剤とおぼしき材とを組合せた装置を取付け、地震の際柱脚に生じる動きを逃げようといういわば簡易ダンパーらしい。土台と柱を固く接合すると意味がないからだろう、V字金物で接合するだけのようだ(カタログに載っている写真を載せればよいのだが、それでは「問題」を起すのでヤメ)。
要は、普通は基礎とその上の架構の間を浮かせようというのに対して、土台の上の柱を浮かせようというものらしい。
認定証をもらっている以上、これを柱脚にセットすると、建物が免震になる?!
架構全体が浮いているのならまだしも、どうして架構を構成する一部分が浮いていることで架構が浮く、ということになるのだろう。認定者は何を見ているのだろう。
どうして、部分が安全ならば全体が安全である、と言えるのだろう。
2003年の末に、小舞土塗り壁の耐力壁としての認定がなされた。その解説書によると、その認定は、小舞土塗り壁を設けた架構の実験体(もちろん架構の一部分である)に力をかけて得られたデータが基になったらしい。
これも、部分がよければ全体もよくなるという「部分絶対」信仰と言ってよい。
実験をすれば科学だ、などと考えてほしくない。実験は、それをするにあたっての「仮説」が重要。その「仮説」が、「現象の全体」を洞察したものでなかったならば、ただの遊びに過ぎない。いや、遊びにもならない、無駄だ。
仮に、「耐力のあると認定された部分」を組込んだ架構をつくったとしよう。そして、それを組込めば全体も安全になると思い込み、他の部分の組み方は適当に(いい加減に)済ませたとしよう。実はこれが法令の推奨する「在来工法」そのものだ。しかし、こうしてつくられた架構が実際に地震で揺れたらどうなるか。その結果は、目に見えるではないか。
社会は、体力のある人間と、弱い人間とで構成されている。別の言い方をすれば、老若男女で構成されている。しかし、社会は、体力のあるものだけで維持できる?そんなはずはない。そうだとしたら、世の中、最終的に、唯一絶対の最強力者だけが残ることになる。つまりそれは社会では、もはやない。
しかし今、世の中、そのような志向・傾向が強い。強いものが生き残る。弱いものは消えてなくなってあたりまえ・・。いわゆる《市場原理》。
実は、建築構造についての考え方では、かなり前から、この「思想」が優先されてきた、その意味では《先進的》!
落ち着いて考えてみよう。机の上ではなく、現場で考えてみよう。
このような考え方は、まさに「ご都合主義」。分らないことに目をつむり、分ると思えることだけで、ものごとを理解?しようとする。それは科学ではあるまい。分らないことを分らないと認めること、それこそ科学なのだ。なぜなら、それ以後、分らないことを分ろうと努めるからだ。
その意味では、常に現場で考えてきた近世までの工人たちの思想は、きわめて健全だった。現場では「ご都合主義」は通用しない。だからこそ、見事な技術体系を生み出したのだ。
いろいろな「免震構造」を考えるのも結構である。
しかし、その前に、あるいは同時に、古来地震が頻発するこの国で培われてきた技術体系に、ほんの少しでも、目を向けてみてはいかがなものか。