桐敷真次郎『耐久建築論』の紹介・・・・建築史家の語る-2

2007-06-12 16:10:27 | 桐敷真次郎『耐久建築論』の紹介

2.ヨーロッパ都市建築の耐久力(2)

 [先回のつづき]

 近代都市と歴史的都市が両立しがたいことを、いち早く悟ったのはヨーロッパ先進諸国であった。建築界におけるル・コルビュジェの圧倒的な影響力にも拘らず、ヨーロッパの古い町々や大都市の歴史的中心部では、コルビュジェ流の建築革命は殆ど拒否された。今日でも、代表的なヨーロッパ都市は、いわゆる「歴史的都市」の形態を中核として成立している。

 第二次大戦による破壊ののち、少なくとも四つの都市が、その主要部を全く戦前の姿のままに再建するという驚くべき事業をやってのけた。ドイツのニュルンベルクとローテンブルク、ポーランドのワルシャワ、ロシアのレニングラードがそれらである。他の町でもオールドタウンは殆ど復原的に再建された。近代的都市計画は、ただ新興住宅地と再開発されたスラム地区のみに許されるというのが一般的なパターンであった。

 実をいうと、ヨーロッパの都市にとっては、これは二度目、或は三度目の体験だったのである。すでに19世紀の中期から後期にかけて、都市の膨張と近代化は著しいものがあった。パリやウィーンのように、旧城壁を破壊して近代都市への脱皮を図った町も少なくなかった。
 しかし、この時すでに都市の個性についての自覚が生まれ、モニュメントやランドマークに関する意識が次第に明確化されていった。アルトシュタット(旧市街)とノイシュタット(新市街)をはっきりと区分した町も多い。
 ルネサンスの衝撃をすでに経ていたヨーロッパ諸都市が近代建築の衝撃に強く抵抗したのも、都市のアイデンティティ(自己証明)がその独自の「形態」にあることをよく知っていたためである。

 筆者の手許には20世紀初頭のベデカー(ドイツの著名なガイドブック)が数冊あるが、交通機関やレストランなどの案内を除けば、その内容は今日でも殆どそのまま通用する。つまり、ベデカーにのったものはモニュメントであり、ランドマークであって、その町から取りはずせないものになっているのだ。
 都市についての愛着や意識はそのように高いが、そればかりではなく、個々の建築、或は建築というものについての意識にも、市民と建築家の双方に、われわれとは大いに違ったものがある。
 それは、建築とは本来耐久的なものであり、人間が壊すつもりがなければ壊れるものではないという意識である。壊すも残すも人間の意志次第だという自覚である。近代建築は、耐久力に対する配慮が足りないという点で、こうした伝統的意識と合致しないところがあったのであろう。

 近代建築が普及するためには、ヨーロッパ人が日本人と同じように、建築を「仮の宿り」と考えるような意識の変革が必要だったと思う。
 日本人のもつ「仮の宿り」的建築観は、仏教の死生観、風水火災の見舞う風土、花鳥風月的生活観、木と草と紙の伝統的建築に養われたものと考えられるが、これが明治以降の使い捨て文化の進展と実によく合致して今日の先端的繁栄を築く大きな要因となった。

 西欧の場合はむしろ逆である。伝統的な「あなぐら」と「とりで」の建築観は、もともと防衛的・戦闘的な生活観から出ている。たとえ人は亡びても、建築や都市は残るという前提のもとに人々の生活が営まれている。
 人も建物もともに生々流転するというわれわれの生活観はむしろより近代的なもので、近代建築の思想によりよく合致していたとみるべきであろう。
 しかし、西欧も変りつつある。アメリカに押えられ、いままた日本に凌駕されるという経済力競争の屈辱が、ヨーロッパをも建築の近代化競争に巻きこむかも知れない。もしそうなったら、それはヨーロッパ文明の終末ともいえるし、少なくとも過去のヨーロッパの消滅を意味することになろう。

  [次回は、3.木造建築の耐久力]

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