桐敷真次郎『耐久建築論』の紹介・・・・建築史家の語る-4

2007-06-14 18:47:29 | 桐敷真次郎『耐久建築論』の紹介

4.鉄筋コンクリート造の耐久性(1)

 木造建築は耐久力がないという常識の押しつけのもとに、鉄筋コンクリートの普及が推進されてきたというわが国の歴史的構図は明らかであるが、一般大衆が抱いている「コンクリート造は耐久建築」という誤ったイメージはいまだに修正されていない。一般大衆ばかりではなく、かつては建築家も鉄筋コンクリート造を永久建築と信じていた証拠がある。例えば、明治末・大正初期の論客であった建築家高松政雄は、近代日本における理想的な構法と意匠の原型を追求し、鉄筋コンクリート造こそ永久建築の基盤と断じている(原註2)。

  原註2 高松政雄「人の心と建築材料(三)」
      読売新聞:明治43年12月4日号、
      「高松政雄君の制作と著作」昭和10年、pp160~162。

 しかし、この結論が事実にも理論にも反していることは明白である。
 コンクリートはアルカリ性の物質で、それゆえに内部にある鉄骨や鉄筋の酸化を防いでいる。コンクリートの中性化は表面から内部へ進行して、中性化がかぶり厚さいっぱいに達したとき、コンクリートの防錆能力も尽きてしまう。鉄錆びは膨張し、コンクリートを破壊し、あとは通例の鉄材の酸化が容赦なく進行する。従って、鉄筋コンクリートの寿命はかぶりの厚さに準ずるが、かぶり厚さをやたらに大きくすることはできない。理論的な寿命の値にも各説あるようだが、まず60年から、せいぜい100年とみる点では多くの人が一致している。

 しかし、これは理想的に施工され、亀裂を全く生じなかった場合の話で、実際の建物にはあまり当てはまらない。施工のぞんざいな建物では30年もてばいい方だろうという声もある。公認の償却期間さえもたないだろうと思われる建物も少なくないのである。
 わが国で最も古い鉄筋コンクリート造建築は神戸和田岬に建てられた三菱の倉庫(明治39年、1906年)で、その寿命は60年に満たなかった。旧帝国ホテルは建設後45年で破壊されたが、その鉄筋コンクリートもやはり寿命がきていたという。現存最古の鉄筋コンクリート造建築は三井物産横浜支店(明治44年、1911年)で、ようやく寿命70年に達した。ヨーロッパの初期鉄筋コンクリート造の作例がどうなったかは、詳細を知らないが、いずれも寿命が尽きかけていることだけは間違いない。

  筆者註 以上の数値は、桐敷氏の執筆当時:1980年が基準である。

 近代建築の寿命が恐ろしく短かいことは、ライトのロビー邸(1908年)、グロピウスのファーグス工場(1911年)やバウハウス(1926年)、コルビュジェのサヴォア邸(1928年)などが、すでに文化財保存事業の対象になっていることからもわかる。最近では、メンデルゾーンのアインシュタイン塔(1921年)やペレーのル・ランシイのノートル・ダム聖堂(1927年)などの保存、コルビュジェのエスプリ・ヌーヴォー館(1925年)の再建などが話題になっている。それぞれの内容は別として、何か近代建築のはかなさを感じさせるニュースである。

 これらは経済的耐用年限の問題だという反論も可能であるが、それはフレキシビリティの欠如と同義であり、これは機能主義の裏返しの結果ではなかろうか。
 つまり、機能主義に徹すれば徹するほど、その建築はすぐに古くなる。
 その意味で近代建築はオーダーメイドの子供服に似ている。成長変化する内容に耐えられず、他の用途にも転用できないものが多い。修理も利かず、建て直した方が早いものが多い。いずれにせよ、耐久力がないのである。

 近代建築の基本構法や設計理論の基本そのものに、建築の耐久力を減殺する要因があることは、それらに付随するさまざまな表現や細部にも欠陥があることを予想させるが、これも残念ながら事実である。
 例えば、近代建築の基本形となったいわゆるインターナショナル・スタイル(箱型、白い平坦な壁、陸屋根)は、全く地中海型の建築であって、他の地域にはまず適合しない。
 特に多雨多湿のわが国で、陸屋根の大半が雨もれを生じ、二度も三度も修理してどうにか間に合わせていることは、建築界では常識化している。
 壁面を雨にぬらすことは、むかしの建築家たちが最もおそれたことであるが、軒蛇腹や蛇腹のないのっぺらぼうの壁、窓まわりの単純さは、そうした1000年の常識にさからっているのである。

 ミース式の総ガラス張り建築に至っては、いかなる場所に建てようが、暖房負荷・冷房負荷の点からエネルギー浪費のための建築としかいいようがない。
 もともと総ガラス張り建築は、イギリスか北フランスの温室建築か展示場建築として考えられたもので、人間の居住には本来向かないものである。スカンジナヴィア諸国や中近東諸国における総ガラス張り建築ほど不合理で無駄なものは考えられない。ハンコックビルのような超高層ビルの壁面ガラスが次々に破れてゆく事件などは、こっけいを通り越して冗談ではないかと思う。
 何のために何をしているのかがわからなくなっているのである。耐久力どころではなく、単なる浪費なのである。

  [以下、次回につづく]

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