悲しきかな、会社人間

 とある講演会の受付近くで耳に入って来た会話。

 「いやー、物産にいましたからね、こういう講演会には興味があるんですよ」
 七十に手が届こうかという身なりの良い男性(以後「A氏」としておこう)の言葉が耳に入って来た。受付氏が職業を聞いた訳でも、来場された理由を尋ねたわけでもない。「物産にいましたからね」に受付氏が返事をする間もなくA氏は講演会場へと入って言った。

 「物産」とは勿論、三井物産のことだ。「商事」と呼ばれる三菱商事とともに日本を代表する総合商社。つまり、日本を動かす企業のひとつと言っても過言ではない「物産」だ。

 見たところ、少なくとも部長職以上で退職(あるいは転籍)し、関係会社の役員を数年務めて自適の生活に入ったであろうと思われるA氏である。やや小柄なA氏だが、背筋をピント伸ばした姿勢は堂々としている。着ている物の品もいい。若々しくも見える。そのA氏の口から、問われた訳でもないので出た言葉が「物産にいましたからね」。

 余計な一言が無ければ「品の良い初老の紳士」であったものが、「物産」の一言で台無しである。A氏には「物産」に勤務していたこと以外には自らを語れるものが無かったのだろうか。大体、初対面の受付氏にそんなことをいう必要も無いはずだ。いや、A氏としてはその必要があったのだろうな。自らを語れる最大かつ唯一のものが「物産」だったのだ。悲しいから「物産」。悲しいかなA氏。

 「物産」に勤めようなどとは考えたことも無いし、もし思ったとしても門前払いの郷秋<Gauche>だけれど、その分、日本を代表する企業に勤めていたことだけが自慢の老人にならなくて済む、問われもしないのに「元勤務先」を吹聴しないで済むのは幸せと云うものだ。


 例によって記事本体とは何の関係もない今日の一枚は、ユニークな花の季節以外には見向きもされないと思っていたら、実が染料の元となるらしく、秋にはその実だけを求めて歩く方もいる程の人気者であったとつい最近知った、キブシの紅葉。
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