「遠野」なんだり・かんだり

遠野の歴史・民俗を中心に「書きたい時に書きたいままを気ままに」のはずが、「あればり・こればり」

仙人堂

2007-07-08 10:38:02 | その他
 仙人峠にまつわる神社として、頂上の仙人堂、中仙人の山神社、遠野口の沓掛観音がある。山神社は前回、沓掛観音は前々回紹介したが、本日は残りの仙人堂について。この神社がいつ建立されたものかは定かではないが、頂上境内にある石碑は青笹村中沢の人が享保15年(1730)に建立したことが記されている。この年は、三陸沖に津波があり、小友・上郷の火石金山が発掘され、青笹しし踊りの祖「踊り嘉兵ヱ」が亡くなった頃でもある。宝暦10年(1760)編の御領分社堂には、仙人堂、俗別当平蔵とある。



 この仙人堂の御神体は、上郷聞書にも載ってある木像のもので、寛永6年(1629)、仙人大覚、別当三光房、畠山京介作、勘七とある。八戸から南部氏が遠野へ来て2年目、幕府から新造寺院禁止令が公布される2年前。小友赤坂金山に気仙の者が入り仙台藩と境界論争がおこった翌年の奉納。
 この御神体はある時の大雨で青笹まで流され、しばらくは、上郷町佐生田の「おせんどから」(御仙堂河原か?)に祀られた。後に、仙人堂の御神体なのだからということで、また、峠に戻されたという。



 この「おせんどから」と呼ばれる場所は上郷聞書には御銭堂と書かれており、三光坊の墓と記された標柱が建っている処である。釜石市教育委員会の仙人峠の資料では、峠の本宮に対して、ここが里宮としての役割を果たしていたのではないかと記されている。ということは、御銭堂と記されたここは本来、御仙人堂と呼ばれていたものが簡略化したものではないかと推察する。


 
さて、御神体に記される勘七であるが、ここ佐生田には勘七家と呼ばれる家があり、この「おせんどう」の持ち主で、現在の当主によると、仙人堂の別当をしていたという。また、三光坊の墓は標柱の場所ではなく、この「おせんどう」の道路向かい(南側)の田圃の中にあるとのこと。この田圃も別当家のもので、三光坊は先祖とのこと。石碑には「松嶺法師三光坊之霊位が元文10月14日」と記されている。 元文年間とは1736~1740で、附馬牛の笹谷観音に本尊勢至観音立像が建立され、小友長野上台川原みよし金體金山発掘され、来内の伊豆権現再興、両川覚兵衛が伊勢両宮社、松尾神社社殿寄進した年代とも重なる。


 
この勘七家(本姓佐藤)は、トンネルが開通してしばらく経った昭和37年に当時の当主(現当主の夫)が桑畑鶴松を神職に金野元治郎を棟梁として「おせんどう」に現在の社を建て、御神体を峠から降ろして奉納したとのこと。従って、標柱の記述は本来の「仙人堂」と訂正すべきだろう。社建立の翌年、遠野住の刀鍛冶「菊池竹斎」による御神刀、日本刀などを奉納したが、現在は盗難にあい、紛失してしまったという。この竹斎の手によるものは釜石の尾崎神社にも奉納されているようである。



(里に御神体を降ろすまでの峠の神社は、大正期には荒れていたものを昭和17年に市川洗蔵氏が再建。この市川氏は当時遠野在住で、父は下駄屋とその材料の卸業を、姉夫婦が釜石で下駄屋を営んでおり、14,15歳の頃釜石に集金に行った帰り、仙人峠頂上近くで猛吹雪にあい、死を覚悟した時、吹雪がやわらぎ、頂上に辿り着いた。これも仙人の加護かと感謝しながら、上にいた三人の軍人と一緒に茶屋で一夜を明かした。その後、洗蔵氏は親戚を頼って大阪で貿易商を営み成功する。そこに姉夫婦の長男を呼んで商業高校に入れ、仙人の加護に報いるために神社を再建したという。この長男こそが、新張の味方屋さんの先代である)

 仙人堂別当勘七家は、当初は現在のトンネル遠野口(沓掛)から佐生田までを有していたようで、別家に常楽という屋号の家がある。この常楽は一説によると常楽寺という寺があったところだと云われ、三光坊と常楽寺との関係をうかがい知ることができる。また、以前、高橋縫之助の家の方が、別当家を訪れ、錫杖が残されていないかと聞いていったことがあるという。そばにある日出神社と別当常陸家とこの三光坊と仙人堂、いずれも、この地域を開発した先駆者としての役割を果たした家なのだろう。



 最後に、昭和16年頃、「放浪記」で有名な林芙美子は朝日新聞に連載していた「波濤」の舞台としての取材で釜石を訪れ、帰りに峠を越えて来て遠野口の雲南茶屋に寄り、雲南餅を食べたという。そして、その店の娘が所用があって東京へ行く際の列車が芙美子と一緒となり非常に懇意にしたという。また、宮沢賢治は、叔父が釜石で薬局を営んでいたことから、度々、軽便鉄道を利用し、峠を歩いている。「春と修羅」の一節にある「峠」は仙人峠のことであり、風の又三郎の舞台は釜石鉱山大橋小学校である。遠野物語に出てくる仙人堂も、しかりであるが、佐々木喜善が土淵村長時代に軽便鉄道の国有化運動に尽力したことも附しておく。最後に、戦時中、大陸から来た人達が鉱山で労働し、戦後の混乱期にこの峠を越えて来た事も忘れてはならないようだ。


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12 コメント

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Unknown (明治神宮)
2007-07-08 23:03:52
駅の近くでした。親不孝通りとは正式な地名ですか?大学は九州だったのですが親不孝通りという正式な地名がありました。予備校が多かったので名付けられたそうです。妻は遠野物語とは無関係です。人違いです。さて、本日仕事をしていたらヤフーで清水寺が世界7不思議の選考に漏れたと。候補はほとんど建造物でした。なぜ清水寺が不思議なのか知ってたら教えてください。法隆寺の五重塔など構造計算していないのに1000年の風雪に耐えて建っているというのなら分かるのですが。
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記憶が? (笛吹童子)
2007-07-08 23:20:09
  明治神宮さん:
 やはり、記憶が定かではなかったようですね!笑
親不孝通りは通称です。清水寺の不思議については知りませんでした。ウィキペディアによると不思議でなく驚異的なという意味合いでのwonderなようですね。清水寺は坂上田村麻呂縁のお寺で、境内地にアテルイの碑が建っています。アテルイは岩手の蝦夷の長でした。清水の舞台の下の木組みを見たことがありますが、貫とクサビによるほどほどの接合具合があの舞台を支えていることに驚きでした。(決して剛接合でないことに)
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Unknown (明治神宮)
2007-07-08 23:30:30
世界新7不思議に選ばれている理由は半剛接合による弾塑性履歴応答を示す構造物という事ですか?清水寺は修学旅行で一度行ったきりです。7不思議の理由分かったら教えてください。残念ながら選考では落選したらしいです。
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不明 (笛吹童子)
2007-07-09 00:29:12
  明治神宮さん:
 不思議の件はよくわかりません。京都には4回ほど行きましたが、暇とお金があればなんどでも行きたいくらいです。
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繋がった (yamaneko)
2007-07-09 07:23:19
三光坊の墓は春先に取材していましたが、これが仙人峠の御神体を収めた仙人堂(御銭堂)とは、いつもながら笛の旦那の記事にはびっくり感動感謝の嵐です。
へぇ~~
傍らに勝軍地蔵っぽい石像がありましたね。
近くの林の中には小さな量産型赤い祠が2つあったり・・面白そうです。
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石像 (笛吹童子)
2007-07-09 08:01:10
  yamanekoさん:
 おはようございます。
お堂の脇にある石像は、別当家の隣の方が、一緒に置かせてくれということで、移設したものとのことでした。まだまだ、何かありそうな地域ですが、代替わりをしていて詳細はつかめません。
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味方屋さんと繋がるとは・・・ (romi)
2007-07-09 14:27:57
貴重なエントリーです。
ただただ唸っております。
博士昇進!否、もはや教授ですな(^^v
記憶力の悪い私には脳にとどめる事が出来ないで大変嬉しい記事でしたo(^▽^)o
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ちょびっと! (笛吹童子)
2007-07-09 20:44:33
  romiさん:
 今回は、謎の建造物からはじまり、峠の歴史まで、ちょびっとだけ、頑張ってみました。実際に峠を歩くことはかないませんでしたが、いつの日にかきっと・・・と思っています。(でも、熊が実際に出ているのでくれぐれも単独行動はなさらないようにと、あらためて注意報を発令します!)
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んだがらす (一如)
2007-07-09 21:20:05
 んだがら、みんなで行ぐのす(笑)
8人以上だば、だいじょぶだすぺ
道の日は昨年まではありましたが、8月10日と決まっているので
平日では参加はかないませんでした。
 今年からの予定はわかりません。

以前、親子で参加のときは、土木の方や建設課の方々からの差入れを
いただき、大変嬉しい思いをしました(笑)
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道の日 (笛吹童子)
2007-07-09 21:45:21
  一如さん:
 8月10日の道の日、今年も仙人峠のウォーキングがあるようですね!遠野市のホームページに募集告知がのってました。これは、平日だろうが、個人的には参加です。送迎バスもあり、弁当と飲み物さえあればOKなようです。一如さんの道の日情報のおかげです。
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