
昨日、とらねこさんから教えて頂いた駒木伊豆権現に早速足を運ぶ。よくあることだが、この社の南側の道路は良く通るが、問題意識があるのと、そうでないのでは大きな違い。頭を深く下げながら参拝する。中にある御札には確かに明和の文字が見えた。とらねこさんに感謝々。

近くにある家を見渡すと、ご覧のような家紋の蔵が2棟。どちらも大橋家である。ちなみに、画像の蔵をお持ちの方とは、仕事上のお付き合いがあり、これも縁。
さて、一明院にて若干ふれた喜楽院であるが、この修験者がいた場所が五日市であり、その喜楽院が別当を務めていたのが下の倭文(しどり)神社である。地域では御文殊様といい8月20日に例祭が行なわれ、柏崎しし踊りや似田貝・飯豊神楽が奉納される土淵町の旧村社でもある。

この喜楽院は、平泉藤原氏の一族であったと伝えられており、阿曽沼時代からここに住み、年中行事を指導してきたようである。この喜楽院の弟、長圓坊が、慶長年間に栃内に別家となり、北川正福院をはじめ、現在まで続く修験者の家となる。栃内の北川氏は厚楽川の水路を治して柏崎の湿地を開田することに尽力するなど、修験者の役割のひとつとしての開拓の一端を知ることができる。別家筋の記録は現在もはっきりしているようであるが、本家筋である五日市北川家については、一時、この場所を離れたこともあり、詳細のはっきりしない部分があるようだ。この北川山伏の活動状況がわかると、五日市をはじめとする土淵の歴史の多くの部分が判明するのではないかと言われている。

近くにある家を見渡すと、ご覧のような家紋の蔵が2棟。どちらも大橋家である。ちなみに、画像の蔵をお持ちの方とは、仕事上のお付き合いがあり、これも縁。
さて、一明院にて若干ふれた喜楽院であるが、この修験者がいた場所が五日市であり、その喜楽院が別当を務めていたのが下の倭文(しどり)神社である。地域では御文殊様といい8月20日に例祭が行なわれ、柏崎しし踊りや似田貝・飯豊神楽が奉納される土淵町の旧村社でもある。

この喜楽院は、平泉藤原氏の一族であったと伝えられており、阿曽沼時代からここに住み、年中行事を指導してきたようである。この喜楽院の弟、長圓坊が、慶長年間に栃内に別家となり、北川正福院をはじめ、現在まで続く修験者の家となる。栃内の北川氏は厚楽川の水路を治して柏崎の湿地を開田することに尽力するなど、修験者の役割のひとつとしての開拓の一端を知ることができる。別家筋の記録は現在もはっきりしているようであるが、本家筋である五日市北川家については、一時、この場所を離れたこともあり、詳細のはっきりしない部分があるようだ。この北川山伏の活動状況がわかると、五日市をはじめとする土淵の歴史の多くの部分が判明するのではないかと言われている。
修験者の血を引く者が多いと言われるこの遠野郷。
古き社の別当筋は皆それに繋がっているようですね。
で、ヒヤリング?の結果?
SHIDORI・・・HIDORI 方言では前者でしょうね。
言葉一つをとっても、年代的なものを感じます(*^-^)b
五日市の倭文神社の狛犬は古いらしいですね。
毎回行かねばと思いつつ時間切れとなる不思議な場所です。
栃内の北川家は、子供の頃、近くの山でワラビやゼンマイを採ると、買ってもらいにいった家でもあります。(小遣いかせぎに)その曲り家が北上市のみちのく民族村に移築された時には、残念無念でした。当時の遠野市には、北川家の価値を知っていた人も少なかく、移築された建物を、わざわざ、見に行きました。物の価値は、時の流れとともに変わりますが、ちょっと前までの遠野市であれば、きっと、他の地域に移される前に手を打つことができたでしょう。
訛って、「しどり」神社。全国的には「しとり」神社。でも、地元では、「お文殊さま」ですよね。遠野でこの名前の社は、ここ一ヶ所。「阿修羅堂」も同じですが、唯一が好きな土地柄か?
先日の来遠の際、土淵の熊野探しで、近所の人と立ち話をした時に見たお墓が、本日話題の別家の方のものです。話をしていくと、ひとつにつながっていくのが、遠野ですものね。
さて、記事とは無関係な内容ではありますが熊野さんの件。先日もう一度金勢様上方を歩いてみましたが10分ほどで西内海上線に到達、何も見つけられませんでした。私では見る目がありませんし(笑)。植林時の道があるのでどれが本来の道なのか判断付かないので当日歩いた道2本以外の道を歩いてみようと思っています。地震観測所と反対側の道が到達した道です。それと西内海上線より上に存在する可能性はあるのでしょうか?ちょうどダンプのすれ違い待ち場所に到達し、ダンプの前に出るのは気が引けたのでそこで引き返しました(笑)。可能性があるなら次回はそこまで車で行ってそこから歩こうと思ってます。日曜は工事も休みですし。
例の資料は見つけられませんでした。残念です…。
初コメントありがとうございます。また、先日はご一緒頂きありがとうごまいました。aboutさんが歩かれた範囲で可能性があるのは、もうひとつの「宝領社」ですが、地元の人達の記憶からもなくなっているかもしれません。近辺の熊野ですが、山勘なので、はずれたような気がします。意外に光岸寺側の山には、社が少ないのが気にはなるのですが・・・。お寺さんの力が強かったのかもしれませんね。笑
駒木の伊豆権現に関連して・・・
この社は遠野南部家臣の大橋又右衛門縁の社と伝えられますが、駒木には4件の大橋姓(確か?)があり、笛吹さんのお知り合いの大橋家は、平家落人の末裔とされ修験者の家系といわれ、又五郎といいます。
無論屋号も又五郎・・・又五郎梨という遠野市指定の天然記念物がございます。
その又五郎さんに関して何か資料とかに掲載はありませんか?別当三太郎に関連する御宅か?
それともう一軒、まんさどんという屋号の御宅があり、こちらは又五郎(亦五郎)家と隣り合ってます。
大橋又右衛門家は屯所の裏側の御宅ですが、こちらにも又五郎梨の株分けした大木があったのですが、台風で倒壊、確か万世の里の入り口、バイパスの万世の里の看板の下に取り付けられた空洞の木がそれだったと思います。