「遠野」なんだり・かんだり

遠野の歴史・民俗を中心に「書きたい時に書きたいままを気ままに」のはずが、「あればり・こればり」

石上神社

2007-01-07 15:24:07 | その他
 皆さんご存知の石上神社。東禅寺・早池峰山へと続く綾織町鵢崎(みささき)にある。本殿の後方に遠野三山のひとつ石上山がある。
 
 文治年中(1185~1189)阿曽沼広綱が入部に際し勧請したと伝えられる。南部氏の代にも領主の信奉篤く、福田氏を例祭に励行させている。南部藩政の頃は石神神社と書かれ、石神の信仰に基因するものともいわれる。明治42年3月に砂子沢の熊野神社と石上神社付近にあった稲荷神社を合祀する。奥宮は石上山頂にあり、里宮は石上新山宮として現在地に鎮座せらる。

 この神社に奉納されていたと思われる太刀が遠野市指定文化財になっており、「永和2年(1376)8月宝寿」と銘がある。以前ふれたことがあるが、永和は北朝年号。

 遠野領主である阿曽沼弘綱は西暦1368年に南朝方として新田義宗の旗揚げに参加すべく沼田城に駆け付けていることから、地元遠野もこの時期は南朝方だったものと思う。周辺はどうだったのか。南側は、宮城県登米の葛西高清は南北朝前期に石巻の葛西総領家を吸収していることから北朝か?(葛西氏はそれ以前は南朝方)。山谷観音堂は文和3年(1354)平清忠なるものが再興しており、これも北朝銘。(ただし、山谷観音堂は48年後にまた再興されている)。西の斯波氏は北朝方。北側は南部氏が抑えている。この頃の遠野は、南北朝の境界線上の地域になっていたのではないか?
 この後の永享9年(1437)阿曽沼の8代とされる秀氏が遠野へ移り、宝徳2年(1450)には葛西氏系の金成政実が宇夫方氏を攻め、宮森氏・増沢氏の救援にて撃退している。1392年、南北朝が統一された後の出来事である。
 
 阿曽沼7代と8代についてだが、沼田城の件と遠野へ移る年代差が69年あり、親子の関係とするには無理があるのではなかろうか。
 宇夫方広隆は江戸時代に書かれた遠野旧事記・同古事記の作者であり、綾織に縁の深い人なのに、綾織の神社にふれていないのはなぜなのだろう。身近すぎるからか。

 それにしても、文化財の太刀は、誰が所有していたものなのだろう。南朝方である遠野南部家重臣福田氏所有のものなのか?三戸南部氏のものか。太刀の写真を良く見ると柄にある穴は1ヶ所なので、一人の人が所持していたものと思われる。(何人もの手を経ると実用とする際に、その人の体格に応じ、穴のイチを変えるそうだ)上記の出来事のいずれかによって倒した北朝方の武将のものを奉納したのであろうか。(敵将の所持品を神社に奉納するだろうか。)

 この神社も、南北朝期の不明な遠野の歴史を何か物語っているような気がする。

 石上神社のきれいな画像はこちらがお薦めです。


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12 コメント

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樹木越し! (玉千代)
2007-01-07 19:26:37
私もこの樹木越しに見る石上神社がスキなのです。
最初目に留まったのがこれでして、みょぉーに感動したのを今だに憶えています。
砂子沢、「みさ崎」という不思議な名前・・・全国でもここに1ヶ所だけだそうですね。
とらねこさんやromiさんも何やら「におう」と仰っていました・・・・
笛吹童子さんのお陰で、又しても奥深いみさ崎に出逢えました。
ありがとぅ~御座います。
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鈴木宮司 (romi)
2007-01-07 23:10:54
鵢崎=ミササキ、ミサザキ=御陵と関係している気がする。
イロハの「イ」の社、別当(宮司)?は物部子孫系の「鈴木姓」です。
鈴木は穂積ともつながる・・・・。
宝刀は大分前に売られたとか・・・・実際はわかりません。
表舞台から裏社会をつかさどった「物部」の匂いがプンプンして来ます。
私が好きなロマンを感じます。はい。
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リンク (笛吹童子)
2007-01-07 23:16:20
 姫、勝手に画像を紹介して申し訳ございません。私の知っている限りでの最高の絵だと思いまして。
 手元のデータをあのコンピューター、このコンピューターと探しましたが見つからず、雨、雪、風が舞う最悪の天気の中、現地に行ってきましたが、予想通り映りが悪く。
 真夜中の今も、とんでもない風が吹いています。消防の皆さんの飲みが足りないのではと思っています。
 
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物部 (笛吹童子)
2007-01-07 23:33:03
 romiさん、消防ご苦労様でした。酔いは醒めましたか?
 鈴木姓の方が守っている神社。その方は石上神楽もやっていますよね。今から40年近く前までは、砂子沢には沢山の茅葺の建物が残っていて、その中に、宿坊をしておられた家があったように記憶しています。そのお宅が別当さんなのかどうか、気にしていました。
物部→鈴木:はるか昔に、神の信仰を図るため全国に散らばったといわれる姓でもありますよね。一説によると、遠野に多い、菊池姓も北関東周辺の温泉関係の神社に関わりのある苗字との説もあるんですよ。
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みささき (一如)
2007-01-08 12:50:08
>鵢崎=ミササキ、ミサザキ=御陵
romiさんの以前のブログを拝見して”びつくり”したばかりでしたので、またまたジャストな話題でありがたいことです。みなさんも「穂積 鈴木」に注目していたのですね。ニギハヤヒの後裔といわれている家系だそうですが、そこから進むことができませんでした。そして、石上神社(ていうか、石上信仰)に壮大な推理が働きすぎて、他に言えない状態(ムムっ)でした。データが少ないにもかかわらずつまみ食いで想像してしまうのでした。
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神様 (笛吹童子)
2007-01-08 13:11:24
 一如さん&romiさんは、神様に詳しいようですので、もう少し教えて下さい。私は、神仏そのものについては、よくわかりません。遠野の神さんと阿曽沼氏との関わりなど、探る手立てとして考えています。
(例:遠野の神さまの中で、北関東周辺から、きたと思えるものだど)
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とても深くて (一如)
2007-01-08 23:48:17
 神様に詳しい?いいっ??  とんでもありませぬ(ブツブツ )。神仏そのもの・・・っていうと信仰や陰陽師的なことが関係あると思っています。阿曽沼氏が勧請した神仏には興味がありますし、それには下野国時代の神仏が絶対関係しているはず、とも思っておりまして、佐野市にある大平山神社にたどり着きましたがそれ以来進んでおりません。何しろ横道にそれっぱなしでまとまりがつかない。ぉお横道といえば以前阿修羅堂を紹介されていましたね。中の仏像の作者が「はくどう」とか。私も少し調べてみました。それは仏像の後に「白道」と書いてあったのをそのまま読んだのでしょうか。そうであれば「木喰白道」「もくじきびゃくどう」のことかと思います。戦乱の地を千体仏を誓願し回国供養して歩いた木喰上人の弟子のようです。木喰 と検索すると沢山出てきます。私の知っていることといえばサイトをあさることが多いですから 地元水内集落の人たちは「おあしゅらご」と呼んでいるそうです。
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電話帳発見 (笛吹童子)
2007-01-09 13:48:57
 一如さん、お互いに遠野を知るためにこれからもコメントお願いします。
さて、かねてより、捜索網をめぐらしていた有線放送電話帳を本日入手しました。これからの、妄想をさらに膨らませる資料に大いに活用したいと思っております。捜索にご尽力して頂いた皆さんに感謝申し上げます。
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阿曽沼氏再考年 (とらねこ)
2007-01-09 19:07:51
こんばんは。
自分としては今年を遠野阿曽沼氏再考の年として捉えたいと考えているところです。

此処砂子沢に関してもなかなか歴史的に深いものが内在しているところで、入口の西門館跡の探訪で停滞している現状、砂子沢の館跡だけでも7箇所、砂子沢という沢沿いに展開された狭い地域に7箇所は多いのではないのか?
石上山との関連もさることながら、中世においては割りと開発が進んでいた地域との印象もあります。

おそらくは現在の綾織の猿ヶ石川沿いは洪水や氾濫で農地が作れる箇所は少なく、人々が住むところは高台とか猿ケ石川から離れた地域だったと思われ、そのひとつに砂子沢が挙げられるものと思います。

館跡に関しては安倍時代、藤原時代とするものもあるようですが、私個人としては館跡そのものを安倍時代とする考察には否定的で、今までみたきた館跡は戦国的な構えがほとんどで、安倍時代の山城的な構えは今の所考えられない、でも砂子沢に関しては数の多さもあり、安倍、藤原時代の匂いもいたします。

この館跡の数、今後の探訪で何かしら少しは明らかになるかもしれませんが、阿曽沼氏というよりも、別の勢力、或いは宇夫方氏に服しながらも固有の何かを守り通していた存在があったのではないのか、阿曽沼氏との関連も大きく取り上げられておりますが、阿曽沼氏による遠野郷への浸透、勢力拡大は阿曽沼広郷時代若しくはその先代と私は考えてますので、少し皆さんとは相違もございます。

いずれ自サイトにてご披露するときがくるものと思いますが、今後もご意見、情報等のやりとりよろしくお願いします。
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砂子沢 (笛吹童子)
2007-01-09 21:47:01
 とらねこさんコンバンワ。
綾織は、中世遠野世界においては、小友とともに、遠野郷の中心地。何よりも下じぇんごといいいながら、数多くの史実がそれを物語っています。(農作物の質の良さもそのひとつ。)現在でこそ、「横田」が中心ですが、綾織の地連協(地域づくり連絡協議会)の方々にもうひとふんばりして頂いて、私達の手間を軽くしていただきたいものと考えたりしています。
 それはそうと、綾織小学校北側の八幡様や聞称寺周辺には館は何かありませんか?通る度に、あそこには何かありそうな気配を感じるのですが。
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