かつて、重要な国際会議などのテレビ映像から
聞こえてくるロシア語同時通訳といえば、必ずと言っていいほど米原万里さんだった。
なんというか「かっこいい」女性そのものだった。
そんな彼女は1960年代前半、多感な小学生時代をプラハで過ごしソビエト学校で学ぶ。
学校には多国籍の生徒が多く在籍し、中東欧の複雑な情勢のなか
子供ながらに「自国」を背負いながら「愛国心」を燃やしながら
それでも友情を育んでいた。
そんな中では万里さんはいかにも日本的で消極的にさえ見える。
そしてプラハの春(1968年「チェコ事件」)と呼ばれる軍事事件。
同級生達はそれぞれの事情を抱えながらバラバラに各国に散っていく。
帰国していた米原さんは大人になってから3人の女友達の行方を追う。
そしてしだいに国とか民族とかそれぞれの出自によって人生が右往左往する
現実がリアルに描き出される。
国際紛争や民族紛争、貧富の差、複雑な歴史の記憶・・・
消し難い背景を誰もが背負っていて、ちょっとしたことで
排他的な民族感情が湧きあがる。
到底理解し合えない異なる思考経路。
それでも、何十年かぶりに出会えた彼女らは理屈抜きで喜び合う。
友情は友情だ。国や民族とは別ものだ。
「・・・国としてではなくたくさんの友人、知人、隣人がいるでしょう。それを捨てられないと思うの。」
彼女のこうした経験を描いたこの作品は、
島国日本に暮らしていてはなかなか体験し難い、世界にうごめく
たくさんの人種のたくましい生き様がひしひしと感じられる。
米原万里 1950年~2006年
鳥取県出身の日本共産党常任幹部会委員(当時)・衆議院議員米原昶(よねはら いたる)の娘として東京都に生まれた。
今日、尖閣諸島事件の映像が流れた。
一派ひとからげに「中国ってきらい」と思った人もたくさんいただろう。
だけど、幸い私には中国の友人や恩師がいる。
それとこれとは別なんだってことを実感した。
聞こえてくるロシア語同時通訳といえば、必ずと言っていいほど米原万里さんだった。
なんというか「かっこいい」女性そのものだった。
そんな彼女は1960年代前半、多感な小学生時代をプラハで過ごしソビエト学校で学ぶ。
学校には多国籍の生徒が多く在籍し、中東欧の複雑な情勢のなか
子供ながらに「自国」を背負いながら「愛国心」を燃やしながら
それでも友情を育んでいた。
そんな中では万里さんはいかにも日本的で消極的にさえ見える。
そしてプラハの春(1968年「チェコ事件」)と呼ばれる軍事事件。
同級生達はそれぞれの事情を抱えながらバラバラに各国に散っていく。
帰国していた米原さんは大人になってから3人の女友達の行方を追う。
そしてしだいに国とか民族とかそれぞれの出自によって人生が右往左往する
現実がリアルに描き出される。
国際紛争や民族紛争、貧富の差、複雑な歴史の記憶・・・
消し難い背景を誰もが背負っていて、ちょっとしたことで
排他的な民族感情が湧きあがる。
到底理解し合えない異なる思考経路。
それでも、何十年かぶりに出会えた彼女らは理屈抜きで喜び合う。
友情は友情だ。国や民族とは別ものだ。
「・・・国としてではなくたくさんの友人、知人、隣人がいるでしょう。それを捨てられないと思うの。」
彼女のこうした経験を描いたこの作品は、
島国日本に暮らしていてはなかなか体験し難い、世界にうごめく
たくさんの人種のたくましい生き様がひしひしと感じられる。
米原万里 1950年~2006年
鳥取県出身の日本共産党常任幹部会委員(当時)・衆議院議員米原昶(よねはら いたる)の娘として東京都に生まれた。
今日、尖閣諸島事件の映像が流れた。
一派ひとからげに「中国ってきらい」と思った人もたくさんいただろう。
だけど、幸い私には中国の友人や恩師がいる。
それとこれとは別なんだってことを実感した。