マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

音無川と王子街道(その3)

2015年12月22日 | 江戸の川・東京の川

 1220日(日)、王子街道の始点・終点を求めて音無川暗渠(以下音無川と表記)を歩いた。日暮里から下流の音無川はほぼ全て歩いたが、王子街道の痕跡は何も発見出来なかった。ただ音無川に絡む、私なりの発見が幾つかあった。今日のブログはそれらの一部について触れる。

 谷中図書館分室前に自転車を置き、芋坂を下って突き当たると「善性寺」。その門前に「羽二重団子」がある。『東京超詳細地図』(以下地図)を片手に、「善性寺」に架かっていた将軍橋を今回の出発点にした。音無川が江戸時代に何処を流れていたかは古地図を見れば分かる。しかし暗渠となった現在、かつての流路を知ることは、現在の地図では難しいはず。しかしパソコンソフト「江戸・東京重ね地図」で調べると、現在の台東区と荒川区の境を流れていたことが分かった。とすると上記に記した地図で事足りる。(重ね地図は最下段にあり)

 という訳で地図と共に、右手側に台東区の、左手側に荒川区の住居表示を確認しつつ進んでいった。歩き始め、台東区は根岸であり、荒川区は東日暮里だ。尾久橋通りを渡り、尾竹橋通りを過ぎるあたりから道は細くなり、S字型の緩いカーブの街路を進むヶ所もある。いかにもかっては川が流れていただろうなという処を進む時は何故か嬉しくなる。(写真:現在は根岸柳通り)











 
                              (街路沿いの家)

 最初に達した史蹟は“御行の松”。江戸期から、根岸の大松と人々に親しまれ『江戸名所図会』や広重の錦絵にも描かれた名松だそうで、初代の松は、大正15年に天然記念物の指定を受けた当時の高さ13.8m、幹の周囲4.09m、樹齢350年と推定されたと書かれているから凄い。石鍋秀子著『王子に生まれて』にも御行の松は登場していたから、江戸時代のみならず昭和初期まで多くの人達に親しまれた松であったことだろう。昭和3年に枯死。現代は三代目だが、往時の面影はまったくない。西蔵院の境外の仏堂不動堂内に植えられていた。堂内はラジオ体操の会場にもなっていた!(写真:初代御行の松)



 
(三代目御行の松)           (仏堂不堂)


 その脇に正岡子規の句が掲げられていた。
  ”春の水音無川と申しけり”
  ”青々と冬を根岸の一つ松”
 とあり、他をも調べると
  ”薄緑お行の松は霞けり”の句もあった。
 子規の句は「羽二重団子」脇の碑にも
  ”芋坂も団子も月のゆかりかな"とあり、子規は住んでいた根岸の里から羽二重団子まで、多分音無川沿いを歩いて訪れただろうと想像している。(写真:子規の句)




 又御行の松付近には和菓子店「竹隆庵岡埜」があり、そこの包み紙には広重の”御行の松”図が使われていることも帰宅後に知った。音無川沿い、取り分け根岸の里には史蹟が多かった。
(写真:竹隆庵岡埜の包紙に登場する広重の錦絵)(次回ブログに続く)









     (江戸・東京重ね地図より。水色が音無川。左上に善性寺、右下に御行の松)


     (上と同じ位置の現在の地図。橙色の線が区境で音無川暗渠)


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