崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

「取材に規制はない」

2012年04月10日 04時41分32秒 | エッセイ
北朝鮮が一部海外メディアや専門家に人工衛星の発射場を公開した。私は発射台の映像を見てどこにそんな力があるのか信じられない。電力と油がなく、アパートのエレベーターや車が作動しないのに巨大な人工衛星の発射が成功するのだろうか、心配にもなる。参加した記者のインタビューで「取材に規制はなかった」という。意外であると感ずる人が多いだろう。しかし私の訪問の経験からも「規制がない」ことにはある程度納得する。厳しい鎖国のような北朝鮮で思いのほか取材の規制がないとは言うが、政治的に取材が難しいのは事実であろうが、一般に写真を撮るには規制がない国である。私が訪問した時出発する前の事前説明会での厳しい規制の話とは非常に異なった自由を感じた。また北朝鮮でアリラン祝祭をみた。数万人のカードセクションも観た。人を動員するのが非難されている。日本でもスポーツの応援団のマスゲームなどと北朝鮮のものが似ている。その動員、規制などの社会活動の中における自由と人権の質が問題であろう。 
 肖像権、著作権などの規制は日本がもっとも厳しい。取材しても変声やボケ画像、匿名が多くて正確な報道が難しい。私は数年前に那覇で行われた日本映像民俗学の会で、1973年ころ私が沖縄宮古島で洗骨葬を撮った写真を初公開した。映画、映像の研究会での発表であるにもかかわらず沖縄地元のある有名な学者が「死者の人権」云々と反発した。私の代わりに他の研究者たちによって反論された。極端に言うと遺骨(死者の人権?)を研究する考古学も存立できないかもしれない。数日前中国広州で墓の中に入ってみて遺品を展示している博物館を廻った。バランスの取れた人権、死者権を考えなければならない。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿