崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

アイロン

2007年07月18日 05時45分41秒 | エッセイ
 私は時々自分のワイシャツにアイロンをかけながら過去を思い出す。朝鮮戦争後私の転校にともない我が家は田舎からソウルに引越した。姉が現在ロッテホテルの向かい側の百貨店のコーナーでドライクリーニング屋をやった。私は学校帰りにアイロンがけを手伝った。母の仕事を手伝ったこともあって抵抗はなかった。ある日紳士服をアイロンで焦がしてしまったことがあった。賠償しなければならないことで大変なことを覚悟したが、姉が弟の中学生が手伝って失敗したと謝った。客は名門の中学校の名前を聞いて許してくれたという。その服を編み縫いして直したようであった。その編み縫い直しは時間がかかる細かい仕事であるが、一時私も習ったことがある。それを職にした女性はいまだに姉の一番の友人である。今私はその時覚えて、得意のアイロンをかけなければならない。

最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
いいお話です。 (朴仙容)
2007-07-18 11:46:33
 若者を大切に思う我が国の人の温かい気持ちが伝わってきます。名門校の学生じゃなくても、中学生が姉を手伝う姿を知って、弁償を要求できなかったのですね。

 大昔のことを思い出します。41年前に初めて本国を訪問した時のことです。釜山からソウルまで汽車に乗りました。大衆車両には馴染めなくて、今で言うグリーン車に乗りました。隣は中年の紳士です。日本語が堪能でした。あの時は、確か所要時間は5時間だったと思います。その間、その紳士が私の無知を嘲笑うことなく、日韓の歴史を詳しく教えてくれました。あの時の教えで、私は韓国人だと言うことを、しっかり認識できました。

 そしてその紳士は、私にソウルのホテルを紹介してくれました。紳士の紹介が行き届いていたのでしょう。ホテルの人々が、私を特別、親切にしてくれました。

 今日の先生の日記で、あの時の列車で学んだ5時間が蘇ります。あの時の方、ご生存なら90歳を超えているのでしょうね。
返信する
新聞配達 (崔吉城)
2007-07-19 05:15:16
 手伝うためというより生き残るためでした。高校一年生の時は夕刊「東亜日報」300部位を配達しました。後に朝鮮日報の編集局長を二回もした当時クラスメートの印輔吉に話したら彼は経験するためといって他の場所でやりました。なにより最初は順路を覚えることが難しく、もっとも難しいことは集金でありました。引っ越してしまえば集金がほぼできず自分が負担するようになって困りました。しかし私はよい経験をしました。その時代は学生がこのようなアルバイトをするのは珍しかったです。1972年留学してすぐアルバイトをしたのもその経験があったからしたと思います。
返信する

コメントを投稿